スターリンとはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

ロシア革命後に成立したソビエト社会主義共和国連邦で、

レーニンの後継者として2代目の最高指導者となった人物、

スターリン

五カ年計画を用いてソ連を工業大国にしようとしたその裏で、

粛清という方法で反対する人々をことごとく虐殺し、

恐怖政治によって人々を支配していました。

スターリンとはどんな人物だったのでしょうか。

今回はその生涯についてご紹介していきます。

 

スターリンはどんな人?

プロフィール
スターリン

出典:Wikipedia

  • 出身地:グルジア(現在のジョージア)ゴリ市
  • 生年月日:1878年12月18日
  • 死亡年月日:1953年3月5日(享年74歳)
  • ソビエト社会主義共和国連邦の連邦共産党書記長。第2代最高指導者として独裁政治を行った。

 

スターリン 年表

年表

西暦(年齢)

1878年(0歳)ロシア帝国の支配下にあった現ジョージアの小さな町、ゴリに生まれる。

1888年(10歳)奨学金を獲得後、ジョージアの首都トビリシ近郊にある、正教の神学校で学び始める。

1899年(21歳)マルクス主義に傾倒していたため、試験を無断欠席し神学校を退学させられる。

1912年(34歳)退学後に無神論者としてレーニンが指導する左翼の一員となり、革命運動を行っては犯罪にも手を染め亡命生活を行っていたところ、レーニンによって党の中央委員に任命される。

1922年(44歳)ロシア帝国崩壊後、ソ連成立に伴い徐々に党内で台頭すると、共産党中央委員会の書記長に就任。

1924年(46歳)レーニン死去後、後継者争いに勝利すると共産党、ソ連の最高指導者となる。

1928年(50歳)ロシアを農業社会から工業超大国にするため、五カ年計画を始める。

1937年(59歳)大粛清を始めると共に、自身に対する崇拝体制を築いていく。

1939年(61歳)第二次大戦が迫るなか、ナチスドイツのヒトラーと不可侵条約を結ぶ。

1941年(63歳)ポーランド侵攻後、ドイツと領土を分割しバルト三国の併合を行うも、条約を破ったヒトラーによりソ連は侵攻を受ける。

1943年(65歳)ドイツ軍を破った後、ソ連の影響力を拡大する野望を抱き、連合国の会談に参加するようになる。

1949年(71歳)原爆実験を成功させ核保有国となった後、冷戦が本格化する。

1950年(72歳)北朝鮮に韓国へ侵攻する許可を出し、朝鮮戦争のきっかけを作る。

1953年(74歳)3月1日、脳卒中を起こして昏睡状態になり一度は意識を回復するも、3月5日死去する。

 

洗脳と粛清 スターリンの独裁政治

ソ連を従来の農業社会から工業的な超大国にすることで、

アメリカなどに匹敵する力を持った国にしようとしたスターリン。

彼が始めた五カ年計画は、社会主義経済の建設や社会主義社会の実現を目指し行われました。

しかしその実態は農業生産者たちを強引に集団化し、農場を政府が管理するなど、

あらゆる経済活動を中央政府がコントロールし、経済の発展を目指すといったものでした。

そして最高指導者となった自身を国民に崇拝させるため、教科書やメディアの内容を管理したり、

自身を題材にした文学や芸術作品を多く作らせました。

一方、自身の政策に対し少しでも異論を唱えたり反対する者は容赦なく排除する粛清を繰り返し、

何千万人という規模の人々が、スターリンの一声によって命を奪われました。

猜疑心が強く、警戒を怠らなかったスターリンは関連する資料を用心深く管理していたため、

1953年に死去した当初はその実態を知らない多くの国民に悲しまれましたが、

死後、晩年まで行われていた粛清の真実が次々と明るみになりました。

ちなみに、「スターリン」というのは自ら名乗った最高指導者としての名前であり、

彼の本名は、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシビリといいます。

 

スターリン 独裁者までの道のり

ここでは鋼鉄の人スターリンの半生から、

独裁者になるまでのエピソードを3つご紹介していきます。

過酷な少年時代

ソ連の最高指導者となったスターリンですが、実は彼自身ロシア人ではなく

誕生したのはロシア帝国時代その支配下にあったグルジア(現在のジョージア)で、

ゴリ市という地域にある靴職人の家でした。

なかでも彼の誕生した地域は治安が悪く、職人だった父親もアルコール依存症を患い、

スターリンはたびたび暴力を受けていました。

もともと裕福ではなかった一家の家計はさらに厳しくなり、

スターリンは何度も引っ越しを繰り返すことになりました。

10歳の頃、正教会からの推薦を受けて神学校に入学してからも、

靴職人を継がせたがる父親の妨害に遭ったり、学校でも人種差別を受けたりと、

ぎすぎすとした環境のなかでヨシフ少年は育っていきました。

少年時代に何度も死にかけていた!?

過酷な環境のなか成長していったスターリンでしたが、

実はこの少年時代の間に何度か命の危機に直面しています。

例えば7歳のとき、天然痘という高熱を伴う感染症にかかり生死をさまよいました。

熱が下がりなんとか一命は取り留めたものの、この病の後遺症とも言える、

解熱後の顔に生じる発疹が跡となり、スターリンの顔に一生残り続けました。

さらに彼は12歳になるまでに、なんと2度も馬車にひかれて大けがを負っています。

そしてこの事故でも命は助かるもののその代償に、

後遺症で左腕に一生残る機能障害を抱えることになりました。

しかしこれらの後遺症のおかげと言えるのか、その後勃発する第一次世界大戦で、

スターリンは兵役の義務を免れることができました。

捕虜となった息子を見殺しにした

数々の試練を乗り越えながらも、神学校で優等生になっていたスターリンでしたが、

やがてマルクス主義に傾倒するようになると、

禁止されていたヴィクトル・ユゴーの著書を持ち込んだり、反抗的な態度を示すようになります。

そして最終的には退学し、無神論者となり革命家として政治活動に傾倒していきました。

その後犯罪や非合法の活動にも手を染めるようになると、

亡命生活を送りながら政治活動を続けます。

この頃結婚したエカテリーナ・スワニーゼとの間にヤーコフという一男を授かりますが、

その数か月後にエカテリーナがチフスによって死去すると、スターリンは深い悲しみに暮れ、

彼女と共に人間に対する最後の温かい感情を失いました。

彼女の遺した息子ヤーコフに対しては、愛情を抱くどころか憎しみすら抱くようになり、

スターリンはこの息子を愛することはありませんでした。

ヤーコフは父親よりも先に死去していますが、その原因はスターリンにありました。

第二次大戦中、ナチスドイツ軍の捕虜として捕らえられてしまったヤーコフに対し、

ヒトラーがスターリンに身代金を条件に解放を提案します。

しかしスターリンはこれを拒否

息子にどんな拷問が降りかかっても顔色一つ変えず、条件に応じることはありませんでした。

その結果、ヤーコフは刑務所内で獄中死してしまったのです。

 

きょうのまとめ

今回はソビエト連邦の2代目最高指導者にして独裁政治を行った人物、

スターリンについてご紹介しました。

スターリンとはどんな人物だったのか、簡単にまとめると

① レーニンの後継者として、ソビエト社会主義共和国連邦の連邦共産党書記長を務め、実質的に最高指導者となった。

② 農業社会だったロシアを五カ年計画などによって工業的な超大国にすることで、アメリカなどに匹敵する影響力のある大国にしようとした。

③ その一方で、自身の政策に少しでも反対する人々に対しては容赦なく排除する粛清を繰り返し、その犠牲者は数千万人とも言われている。

冷酷な独裁者の生涯を調べていくと、幼少期に親からの十分な愛情を受けていなかったり、

ストレスや緊張感にさらされながら育っていったことが見えてきました。

スターリンの息子に対する接し方も、異常なまでの猜疑心や人間不信も、

この過酷な少年時代の生活が大きく関係しているように思えます。

 

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