明智光秀が織田信長を殺した日。本能寺の変

 

日本史上であまりにも有名な本能寺の変

明智光秀織田信長に謀反を起こし、本能寺を攻めて信長に自害させた事件です。

未だになぜ光秀が信長を討ったのかは、

日本史上最大のミステリーの一つと言われています。

明智光秀が主役の「麒麟がくる」がはじまりますね。
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明智光秀サイドの本能寺の変

明智光秀

本能寺の変は、信長の命令による中国地方への遠征のフリをした光秀が、信長の宿舎である京の本能寺を襲った事件です。

光秀家臣たちは敵が誰だか知らされていなかった

1582年5月、中国地方で毛利氏との全面戦争を決めた信長は、苦戦する羽柴秀吉の元に援軍として光秀軍の派遣を決定しました。

そこで明智光秀は、6月1日の夕方、備中高松に向けて1万3千の兵を率い、亀山城を出発しました。

光秀は、柴野(もしくは野条)へやってきた時に、全軍に対して

光秀
信長が出陣の陣容と装備の検分をするので京へ行く

と説明。

その時に、5人の重臣だけには謀反のことを告げました。

皆は驚きましたが、起請文を書き光秀に従ったのです。

一方、信長は6月1日にわずかな近臣だけを連れて京にいました。

茶会とその後の酒宴の後は、信長の嫡男・信忠は宿泊所の妙覚寺へ戻り、信長は本能寺で休みました。

光秀は「敵は本能寺にあり」とは言ってません!

光秀は、本能寺に謀反を知らせる者がいないか厳しくチェックしながら老の坂おいのさかに到着。

ここを越えて右折すれば備中、左折すれば京というポイントで光秀は進路を左にとり、6月2日、軍は桂川に到着したのです。

その時に

光秀
我が敵は本能寺にあり

と光秀が命令を下したというのは、『明智軍記』という江戸中期に作られた軍記物の中のセリフであり、残念ながら本当ではありません

宣教師のルイス・フロイスの『日本史』によると、兵士たちは相手を知らされないまま攻撃に向かったようです。

明智軍に従軍した武士の『本城惣右衛門覚書』によると、家臣たちは信長の命令で徳川家康を討取ると思っていた、とも書かれています。

本能寺の変は朝8時には終了

明智軍は桂川を越えて市中に入り、静かに進軍します。

のぼりや旗指物は出さず、隊や組に分れてめいめい目的地の本能寺に向かいました。

軍は、午前4時頃には本能寺を完全に包囲。

フロイスの記録によると、起床して顔を洗っていた信長は、物音で何者かの襲撃を知ったそうです。

明智勢は四方から攻め込みます。

信長は、最初は弓を、弦が切れると槍を取って戦いました。

しかし肘に怪我をしたところで、寺に火を放ち、女房衆を逃がした上で、納戸の中で切腹。

おそらく遺体は灰になりました。

『信長公記』によると、討ち入り終了時刻は午前8時です。

妙覚寺にいた信長の嫡男・信忠は、手勢500を率いて本能寺に駆けつけました。

しかし、兵力が違いすぎて本能寺に入れず、二条御所に立てこもって光秀軍を迎え討ちました。

結果は惨敗。

御所も炎上し、その中で信忠も切腹して果て、その遺体は床下に隠されたということです。

 

本能寺の変、その後

豊臣秀吉

その後6月5日に明智光秀は信長の居城・安土城入りをしています。

光秀は天下人となったのです。

光秀、痛恨のミス

本能寺の変はあっけなく成功したわけですが、光秀は痛恨のミスを犯しました。

それは、信長と信忠を討った証拠の首を入手できなかったことです。

光秀は2人の遺体を探しましたがどうしても見つけられませんでした。

備中での毛利攻めの真っ最中に信長の訃報を聞いた羽柴秀吉は、急いで毛利氏と和議を結び、京へ戻ります。

その際、信長側の武将の結束が崩れないようにするため、「信長は無事だ」と嘘の情報を広めました。

そのため、数日間は信長生存が信じられており、信長の死を証明できなかった光秀は人集めに苦しみ、小者の武将にすら協力を拒まれたことがあったそうです。

味方のいない光秀

日本史上他に類をみないほどの素早さで、大軍を中国地方から京まで走らせた羽柴秀吉の

「中国大返し」

これにより、光秀は思ったよりも早く秀吉軍を迎え撃つハメになります。

秀吉の軍勢は途中で加勢を加えて3万近く。

光秀の天下取りに加勢する武将は少なく、1万3千の兵で倍以上の秀吉軍を相手に山﨑の合戦を迎えます。

結果は、兵力、そして秀吉のスピードと見事な戦略の前に、光秀軍は惨敗でした。

光秀自身は逃亡中に、地元の落ち武者狩りにあって倒れ、配下の者の介錯で亡くなりました。

「光秀の三日天下」と呼ばれますが、実際には少し長い約11日の天下でした。

 

歴史学者は興味なし? 信長を襲った光秀の動機

さて、織田信長の重臣だった明智光秀は、一体どうして信長への謀反を決断したのでしょうか。

事件の直後に光秀もその家臣も討たれ、光秀の書状は受け取った者が後難を恐れて隠蔽したので、本能寺の変の動機を示す資料は少なく謎の解明は困難です。

また、歴史学的には明智光秀が織田信長を殺し、その明智光秀を豊臣秀吉が破った、という事実が重要なわけで、歴史学者は明智光秀の動機についてあまりこだわっていません。

史料がないことには、想像では歴史学を語れないのです。

 

沢山ある光秀の動機の説

とはいえ、歴史ファンにとっては光秀の謀反の動機は非常に気になるテーマです。

乱立する説の一部は以下のようなものです。

1. 八上城の波多野兄弟を投降させたとき、信長が約束を破って彼らを殺し、反対に人質に出されていた光秀の老母を見殺しにしたための「怨恨説」

2. 徳川家康の接待役のときに魚が腐っていたことを信長に罵倒された「怨恨説」

3. 信長のほぼナンバー2の地位にいた光秀が、天下人を狙っていた「野望説」

4. 他の重臣たちが些細な過失で追放されることに、不安を感じた「不安説」

5. 信長が亡くなって最も得をした秀吉をはじめ、朝廷、足利義昭らによる「黒幕説」

6. 信長が土佐の戦国武将・長宗我部元親との約束を勝手に破ったことにより両者の取次役だった光秀は、面目丸つぶれの上クビ。光秀は可能性が高くなった四国征伐の回避をしようとした「四国征伐回避説」

いずれも決め手に欠けるか、信憑性の低い史料を元にしており、動機の真相は謎のままです。

しかし、本能寺の変を実行した時、信長のメインの家臣たちは皆地方で忙しく働いており、その中で光秀は比較的自由な身でした。

そして、信長と嫡男の信忠が少ない手勢で京に滞在していたという好機を狙って信長を討ったことは間違いありません。

 

きょうのまとめ

今回は、明智光秀が織田信長を討った本能寺の変についてのお話でした。

簡単なまとめ

① 本能寺の変の明智光秀軍は、信長討伐という出陣の本当の目的を知らなかった

② 謀反は成功したが、信長のクビを挙げられなかったのは、光秀の痛恨のミス

③ 光秀の謀反の動機の解明は、歴史学的にはそれほど重要ではない

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku