最終的に織田信長を討った明智光秀も、10年以上信長の家臣でした。
そして彼にも信頼できる家臣団があったのです。
光秀の主君への貢献、そして彼の家臣団をご紹介します。
明智光秀が主役の「麒麟がくる」がはじまりますね。
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家臣としての明智光秀
明智光秀が家臣として仕えた足利義昭や織田信長との関係を見てみます。
室町幕府最後の将軍・足利義昭誕生の陰の功労者
1556年、光秀は斎藤義龍に明智城を追われ、浪人の後に朝倉氏の世話になりました。
そこで接点のあった足利義昭に近づき、のち義昭と織田信長との橋渡し役をしています。
将軍・足利義輝の暗殺後、1568年に足利義昭は信長の援助で、室町時代最後の将軍となりましたが、それも光秀の努力あってのことでした。
信長の天下取りを後押しした光秀の貢献と信長の信頼
やがて明智光秀は義昭からは暇を取り、信長の直臣として活躍し始めました。
信長は明智光秀を高く評価。
柴田勝家や丹羽長秀らの古参の信長家臣たちを差し置いて、1571年には光秀に居城として近江坂本城の築城を許可したほどです。
信長家臣の光秀は、華々しく活躍しました。
1570年、織田信長が浅井長政の裏切りで危機に陥りました。
その時、木下秀吉(のちの豊臣秀吉)と共に決死の殿として戦闘し、撤退を成功させたのが光秀でした。
1571年に行われた、織田信長による比叡山の焼き討ち。
この事件は、信長の冷酷非情さが強調されるものですが、光秀はそれの実行部隊として活躍しました。
のち、その褒美として旧比叡山延暦時領を含む志賀郡一帯が光秀に与えられています。
信長は、1578年に茶会を催すことさえ許可制にしました。
彼に認められた家臣だけに茶会を催す権利を与えたのです。
『信長公記』によると、その年の正月に認められた12名の許可者のうちの一人に明智光秀が選出されています。
これは大変名誉なことでした。
1580年、織田信長は働きの少ない佐久間信盛に対する折檻状を出しています。
この中で信長が真っ先に褒めたのは、光秀です。
2番の羽柴秀吉、3番目の池田恒興を抑えて、最初にその貢献を讃えられたナンバーワン家臣は、光秀だったのです。
1581年、織田信長の家臣団による大規模な軍事パレード「お馬揃え」が京都で行われました。
天下統一目前の信長が、公家衆までをも巻き込み、その権力を内外に誇示したビッグイベントです。
朝廷と繋がりがあり、作法・慣習にも詳しかった光秀は、運営責任者を任されました。
会場のセッティング、正親町天皇の臨席をはじめ、大物公家衆の参加を実現させ、壮大なパレードで見物客をおおいに魅了したイベントは、大成功に終わりました。
その他多くの武功をあげ、武人としても教養人、組織人としても忙しく主君に尽くした光秀は、間違いなく信長のトップ家臣でした。
明智家臣団 光秀に命を預けた者たち
信長の活躍に貢献した明智光秀の元には、彼を支える忠実な家臣団の姿がありました。
一門衆
光秀と血縁のある明智氏の武将たちです。
明智五宿老の一人。
光秀の右腕的人物で、本能寺の変では先鋒を務めています。
山﨑の戦いで光秀死亡を知った秀満が、馬に乗って琵琶湖に飛び込み、そのまま居城の坂本城まで帰り着いたという
「明智左馬助の湖水渡り」
と言われる伝説が知られています。
そして秀吉軍に坂本城を包囲されると、自分の妻、そして光秀の妻子を刺した後に自刃しています。
明智五宿老の一人。
光秀のいとこで、本能寺の変の中心人物です。
信長の長男・信忠が居た二条城を襲撃し、信忠を自害に追い込みますが、彼自身も銃撃を受け負傷。
光秀死亡を知ると、秀満と共に坂本城で自害しました。
光秀のいとこ、もしくは光忠の息子と言われています。
本能寺の変後、山崎の戦いで片桐且元に討たれました。
明智五宿老
明智一門衆を兼ねた明智秀満と明智光忠を加えて合計5人の重臣がいます。
光秀の家臣として最も知られる人物。
四国の長宗我部元親と親戚関係にあり、織田と長宗我部を繋ぐ外交を担当していました。
しかし、元親が勢力を増すと信長が挙兵したため、利三と主人の明智光秀ともに面目丸つぶれとなりました。
これが本能寺の変の遠因だとする説もあります。
実は、光秀に信長への謀反を打ち明けられた利三は最初反対したそうです。
しかし、彼は光秀のために本能寺の変で活躍します。
そのあとの山﨑の戦いで敗北して逃亡し、捕縛・処刑となりました。
彼の娘・福は、のちの徳川第3代将軍・家光の乳母となった春日局として有名です。
光秀の父・明智光綱の代から仕えた忠臣です。
山崎の戦いでは、日和見をしていた筒井順慶を味方にしようと交渉しますが失敗。
戦いでは全身に傷を負い、自刃しました。
光秀が信長に仕官する以前からの家臣とされています。
光秀の丹波攻略で活躍しました。
また、徳川家康が信長に謁見する為に京を訪れた時に、饗応役を務めたのもこの人物です。
山崎の戦いで光秀と共に敗走。光秀が落ち武者狩りで負傷し、自刃する際に介錯を務めました。
光秀の首を守って逃走したのですが、再び別の落ち武者狩りに逢い、負傷したあと自害して果てました。
妻木一族
光秀の正室である妻木煕子の生家の妻木氏一族も光秀に従いました。
明智三羽鴉
本能寺の変で真っ先に突撃した武将たちです。
古川九兵衛(生没年未詳)、箕浦大内蔵(生没年未詳)、そして信長の小姓で美男子と伝わる森蘭丸を討ち取った安田国継(1556~1597)、通称・作兵衛の3人を明智三羽鴉と呼びました。
本能寺で信長に弓を引き、成功したと思いきや山崎の合戦に臨むと、あてにしていた他大名たちから見捨てられた明智光秀でした。
しかし、そんな彼には、苦戦を予想しながらも彼を裏切らない明智家臣団があったのです。
きょうのまとめ
今回は足利義昭と織田信長の元で働いた明智光秀の家臣ぶり、そして本能寺の変で光秀の謀反に従い、山﨑の合戦で光秀に命を捧げた明智家臣団についてご紹介しました。
簡単なまとめ
① 明智光秀は同時に足利義昭と織田信長との両方に仕えたことがある
② 信長の元での光秀の活躍はめざましく、信頼されたトップ重臣だった
③ 光秀には彼と運命を共にした忠実な明智家臣団があった
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