福島正則どんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

福島正則ふくしままさのりと言えば、

豊臣秀吉の子飼いで勇猛果敢な武将というイメージが強い戦国武将です。

それ以外はよく分からないという人が多いのではないですか?

福島正則とはどんな人物だったのでしょうか。

 

福島正則はどんな人?

プロフィール
福島正則

福島正則
出典:Wikipedia

  • 出身地:尾張国(現在の愛知県あま市)
  • 生年月日:1561年
  • 死亡年月日:1624年8月26日(享年64歳)
  • 秀吉の一番槍と言われた猛将

 

福島正則 年表

福島正則の生涯について年表でみていきましょう。

年表

西暦(年齢)

1561年(1歳)愛知県に生まれる。(幼名、市松)

1579年(19歳)三木城兵糧攻めで初陣。

1583年(23歳)賤ヶ岳の戦で功績をあげ、5千石を拝領する。

1587年(27歳)伊予国今治11万千石を拝領し、湯築城主となる。

1595年(35歳)尾張国清洲24万石を与えられ、清洲城を居城になる。

1598年(38歳)掟を破り徳川家康の養女を継室に迎える。

1599年(39歳)加藤清正かとうきよまさらと石田三成いしだみつなり暗殺を計画するが、家康に一喝され断念。

1600年(40歳)関ヶ原の戦いでは東軍につき功績をあげ、広島藩49万石となる。

1614年(54歳)大坂の陣で豊臣家が滅亡。留守居役として江戸に留まる。

1619年(59歳)広島城を無断で修繕したとして信濃国高井野藩4万5千石に減転封される。

1624年(64歳)病気のため死去する。

 

関ヶ原では東軍につき活躍するが後に改易される

福島正則は桶屋の息子だったと言われています。

豊臣秀吉と従兄弟という関係にあったことから、豊臣家に仕えるようになります。

初陣を華々しく飾り、「秀吉の一番槍」とも言われる猛将へ成長します。

正則にとって豊臣家は大変恩義のある主家であり親戚でもあるのです。

しかし関ヶ原の戦いでは、正則は豊臣方西軍ではなく徳川方東軍につきます。

これは豊臣家に敵対したのではなく、石田三成と敵対したと言われていますが、結果的に関ヶ原の敗戦をきっかけに豊臣家は滅亡の道を辿ります。

徳川方についた正則は、広島藩49万石の大大名になりますが、

勝手に城の修復をしたことが武家諸法度に違反するとして、高井野藩4万5千石に減転封されてしまいます。

その後、家督を譲った嫡男も早世し、4万5千石のうち2万石を幕府に返上します。

49万石まで登り詰めた正則は、2万石にまで落ちてしまったのです。

 
正則の改易の理由とは?詳しくはこちらをどうぞ
関連記事 >>>> 「福島正則が改易された理由とは?」

福島正則にまつわるエピソードや伝説

福島正則にまつわるエピソードや伝説をご紹介します。

酒癖が悪かった

正則はとてつもなく酒癖が悪かったようです。

数々の酒癖の悪さが今でも伝えられています。

「黒田節」でも有名な名槍・日本号のエピソードは有名ですね。

日本号のエピソード

ある日、黒田長政は酒好きの福島正則のもとに家臣の母里もり友信とものぶを使いに出した。

友信もまた酒豪であったため、長政は酒の上での間違いを恐れ、杯を勧められても飲むことを禁ずる。

しかし行ってみると案の定酔っ払っていた正則は、よい飲み相手が来たとばかり酒を勧めてきた。

固辞する友信に正則は

「黒田の者は、これしきの酒も飲めぬのか」

と執拗に酒を強い、巨大な大盃を出して

「これを飲み干せば、何でも褒美を取らす」

と言ったため、心を決めた友信はその杯を見事に飲み干し、褒美に正則が豊臣秀吉から下賜された自慢の槍の日本号を貰い受けた。

翌日、酔いがさめて青くなった福島正則は、使いをやって槍を返してくれるよう頼んだが友信はこれを断り、

のちの朝鮮出兵に日本号を持参して武功をあげた。

しかしそれ以外にも酒癖の悪さを伺わせるエピソードがあります。

家臣を切腹させてエピソード

ある日、正則が朝から上機嫌で酒を飲んでいると家臣に注意された。

そのことが気に障った正則は、家臣と口論になり、酒の勢いでその家臣に切腹を命じた。

酔いがさめた正則は、切腹させた家臣を呼び出すと、

周りの者は驚き、正則が切腹させたことを告げると、正則は驚き家臣の首にすがって泣いて詫びた。

家臣に切腹を命じたことさえ覚えていなかったのです。

酔いに任せて切腹なんて、家臣はたまったものじゃありません。

 
福島正則と槍についての話はこちらをどうぞ。
関連記事 >>>> 「福島正則と槍 「賤ヶ岳の七本槍」とは?」

乱暴者だが情に厚い

正則には乱暴者のエピソードも絶えませんが、一方ではとても情に厚い人でした。

広島に入国する時のこと、地嵐と呼ばれる風が吹きました。

すると正則は「国入りの初めに地が荒れるのはよくない」と言って、何の罪もない水夫を切り捨てたと言います。

自然現象に腹を立てて、人を切り殺すなんて乱暴者にも程があります。

一方の情に厚いエピソードは、酒飲み友達が病だと知るやいなや単身で馬を飛ばし、その友人を見舞っています。

しかし病が少しの怪我だけだったので、友人はたっぷりの酒をすすめようとします。

しかし正則はそれを断り、「たくさん飲んでは身体に障るから、一椀なら喜んで頂こう」と二人で一椀ずつ酒を飲み語り合いました。

乱暴者とは思えないエピソードですね。

人間らしいと言えば人間らしい人だったのかもしれません。

石田三成が大嫌い

同じく秀吉子飼いの武将であるにもかかわらず、正則と三成は仲が悪かったのです。

正則が三成を大嫌いだったと言うのが正しいかもしれません。

武闘派の正則に対して、三成は文系の戦国武将です。

現在で言えば事務系の仕事を担当していました。

そりが合わなくても当然と言えば当然かもしれません。

決定的になったのは、朝鮮出兵の時に三成の報告を受けた秀吉から、正則をはじめとした武闘派の面々が叱責を受けたことです。

この一件で三成に恨みを抱いた武将は多かったと言います。

現代で言えば「あのやろうチクリやがって」 と言ったところでしょうか。

 
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きょうのまとめ

福島正則について、いかがでしたか?

福島正則について簡単にまとめると、

① 秀吉の一番槍。槍の使い手

② 石田三成と仲が悪かった

③ 酒癖が悪く、乱暴者だが情に厚かった

④ 関ヶ原の戦いで活躍し、広島藩49万石の大大名となった

と言えるのではないでしょうか。

その他の記事についても福島正則にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 
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