福島正則が改易された理由とは?

 

福島正則(ふくしままさのり)と言えば、豊臣秀吉の子飼いの中でも有名な武将です。

賤ヶ岳(しずがだけ)の戦いでは、

加藤清正などと並び功績をあげ、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれました。

秀吉とは母親同士が姉妹であったため、いとこの関係に当たります。

そのような関係もあり、豊臣家には忠義を尽くしていましたが、関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍に味方します。

東軍は勝ちましたが、その後しばらくして正則は改易されてしまいます。

一体何があったのでしょうか。

福島正則はなぜ改易されたのか?

福島正則はどうして改易されてしまったのでしょう。

理由を探ってみました。

広島城の無断修復

正則の改易の理由は、広島城を無断で修復したこととされています。

正則の治める広島が台風の被害にあい、正則の居城である広島城も甚大な被害を受けました。

江戸時代に入ってからは

城は一国に一城だけ。城の修復を行う時は必ず幕府の許可を得てから

という決まりがありましたが、それをしなかったことが「 武家諸法度 」に違反したとされたのです。

もちろん正則も幕府に修復の届出は出したのですが、「 城は一国に一城だけ

という決まりを破り、新しい城を築城していたことが幕府にばれてしまい、その城を破壊するようにと命じられていたばかりだったのです。

そんな経緯もあり、幕府から修復の許可がなかなか下りませんでした。

そこで正則は雨漏りしているところだけでも、と先に修繕を始めてしまいます。

これがルール違反とされ、改易の理由となってしまうのです。

江戸幕府陰謀説

正則が改易された理由として、一方では陰謀説も囁かれています。

東軍に付いたとは言え、元々は豊臣秀吉の重臣です。

徳川方からしてみれば、いつ裏切るか分からない要注意人物とも言えるでしょう。

実際に「 主家は豊臣家である 」と公言したり、「 豊臣秀頼と徳川家康の謁見の際には刺し違える 」と言ってはばからなかったと言います。

とても徳川家に忠誠を誓っているとは言えない正則を何とかしたかった幕府は、いちゃもんを付けるような形で改易したのではないか?と言われているのです。

広島城の無断修復が改易の原因とされていますが、正則は2ヶ月も前に幕府に届を出していました。

勝手に新しい城を築城し、咎められていたことは確かですが、台風の被害が甚大であることは幕府も把握していました。

それなのに2ヶ月も許可が下りないというのは、

何か他に理由があるのでは?と勘ぐってしまいたくなりますよね。

正則の政治手腕の無さ

もうひとつの理由として挙げられるのが、正則に政治手腕が無かったと言うことです。

関ヶ原の戦いで東軍に味方した時点で、「 豊臣に代わって徳川が政権を握る 」ということを認めることになります。

しかし正則にはそういった考えが無かったようです。

豊臣を裏切って徳川に付くというよりは、西軍の石田三成と仲が悪かったから徳川に付いたという単純な喧嘩のような感覚だったのかもしれません。

関ヶ原や大阪の陣で徳川軍が勝てたのも、豊臣方の古参の武将の力があったから、という考えが強かったとも言えます。

そんなおごりが、勝手に築城という行動に繋がってしまったのかもしれません。

政治的局面で物事を見るセンスが無かったことも、改易のひとつの原因なのかもしれません。

きょうのまとめ

福島正則が改易された理由について、いかがでしたか?

ただ単に正則がルール違反を犯してしまったのか、幕府による陰謀だったのか、

今となっては分かりませんがとても気になりますね。

どちらにしても、豊臣家の衰退と共に正則の運命は決まっていたのかもしれません。










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