小早川秀秋と関ヶ原の戦い

 

小早川秀秋こばやかわひであきといえば

「関ヶ原の戦い」

彼が東軍に寝返ったことで、東軍勝利が確定しました。

彼は豊臣秀吉の甥であり、一時は秀吉の養子でした。

「豊臣家」と非常に縁の深い人物なのです。

徳川家率いる東軍に寝返った理由は何だったのでしょうか?

今回は東軍への寝返りに至る道程を見ていきます。

 

小早川秀秋と関ヶ原の戦い

小早川秀秋

出典:Wikipedia

早速ですが、小早川秀秋がなぜ東軍へ寝返ったのかみていきましょう。

両陣営とのやりとり

小早川秀秋は、北政所(秀吉の正妻)の甥に生まれ豊臣秀吉の養子になりました。

しかし、豊臣秀吉に実子・秀頼が生まれると冷遇されます。

毛利一族の小早川家に養子に出されたのです。

「用済み」の烙印を押されたと言えるでしょう。

秀吉の晩年には33万石から12万石へ大幅減封もありました。

家臣の多くを召し放ち(解雇)せざるを得ませんでした。

秀秋は失意のどん底にあったことでしょう。

そんな彼を救ったのが、徳川家康です。

家康は秀吉の死後、旧領の筑前・筑後33万石を秀秋に与えます。

秀秋にとって家康は大恩人となります。

関ヶ原の戦いが始まった時に心は既に東軍にあったのかもしれません。

一方、寝返りをためらわせた要因もあります。

それは石田三成が約束した好条件です。

「秀頼が成人するまで関白に任ずる」

というものです。

天下人の養子の座を追われた彼には魅力的な話だったでしょう。

「関白になれば天下に号令できる。」決して悪い話ではありません。

秀秋は東西両陣営から誘いを受けていました。

どちらの陣営につくか、秀秋ならずとも迷うところです。

徳川家康には「失意の底から救ってくれた大恩」があり、石田三成の示した「好条件」も捨てがたい。

戦場で彼はギリギリまで悩むことになります。

関ケ原当日の動き

一説によると関ケ原には東軍7万、西軍8万が集結しました。

西軍が先に布陣を終え、東軍は形成不利でした。

明治維新後に来日したドイツの将校はこう言ったそうです。

「この戦い、西軍が勝ったのではありませんか」

布陣の様子を示した史料だけ見るとそう感じたのでしょう。

史実は東軍勝利に終わったことを告げるとくだんの将校は驚いたそうです。

そこには徳川家康の「巧妙な策」があったのです。

東軍はほぼ「全軍が機能」したのに対して、西軍は「日和見」する大名がいました。

西軍・毛利一族は吉川広家が「東軍と内応」していたため、毛利勢はこの戦いに加わりませんでした。

徐々に勢いを増した東軍の様子を秀秋は目の当たりにし、ついに寝返りを決意したのです。

彼の東軍への寝返りで西軍は「総崩れ」になりました。

東軍有利の状況が彼の決断を促したのです。

 

きょうのまとめ

小早川秀秋は稀代の裏切り者のように言われることがあります。

ただ、彼の歩んできた人生からその一言で片づけられない面があります。

北政所(秀吉の正妻)の甥に生まれ、一時は秀吉の養子になりました。

天下人の後継人と目されていたのに、毛利一族の小早川家に養子入り、秀吉の晩年には大幅減封の憂き目も見ます。

天下人の血縁者とは思えないほどの冷遇です。

これでは豊臣家への忠誠心が芽生えるはずもありません。

秀頼のことしか頭になかった秀吉の「失策」と言えるでしょう。

秀秋の心は旧領に復させてくれた徳川家康にあったはずです。

人間、誰しも冷や飯食いにはなりたくありません。

その原因を作った人をよく思わないのも人情であり、秀秋の人生の「歯車」は秀吉によって大きく狂わされました。

それが最後に関ヶ原での東軍寝返りにつながったのではないでしょうか。

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