福島正則 何度も断絶の危機を乗り越えた子孫

 

豊臣秀吉の子飼いの武将として知られる福島正則ふくしままさのりは、

江戸時代に入り改易かいえきされてしまいます。

改易とは、今で言えば「左遷させん」や「減給」のようなものです。

安芸あき備後びんごの国に与えられていた50万石の領地を没収され、

高井郡と越後国魚沼郡の高井野藩たかいのはん4万5000石に減転封されてしまいます。

50万石が4万5000石ですから、とんでもない減封です。

その後、正則の子孫たちはどのように過ごしたのでしょうか。

一緒に見ていきましょう。

 

福島正則の家系図

福島正則

福島正則
出典:Wikipedia

福島正則のざっくりとした家系図です。

家系図
福島正信
|
|——— (※)へ続きます。
|
松雪院
 

(※)—–|
   |—女子—正之まさゆき
   |
   |—正則—|—–正友
   |      |—忠勝ただかつ政長まさなが正勝まさかつ—正視—正森—正韶—正聖
   |      |—正利まさとし
   |      |—女子
   |      |—女子
   |
   |—高晴—|—正晴—忠政
          |—高広

 

福島正則の子孫たち

正則の子孫たちがどのように過ごしたのか調べてみました。

福島忠勝

福島忠勝は正則の次男として生まれました。

嫡男である正友が早くに亡くなり、福島家に養子に迎え入れられていた従兄弟の義兄・正之も亡くなったことから、嫡男となりました。

正則が幕府から改易された時にも将軍・秀忠の上洛に随行していたので、父・正則とは違って幕府からの信頼は厚かったのかもしれません。

忠勝は正則と共に信濃高井野に移ります。

この時に正則から家督を譲られ、信濃高井野藩第2代藩主となります。

しかし1620年に22歳と言う若さで亡くなってしまいます。

正則は悲しみのあまり、4万5000石の領地のうち、越後国魚沼郡2万5000石を幕府に返上してしまいます。

さらに4年後の1624年に正則が死去すると、幕府の検死役が到着する前に家臣が正則の遺体を火葬したため、残りの2万石も没収され、大名としての福島家は断絶してしまいます。

福島正利

福島正利は、忠勝の同母の弟で正則にとっては三男だと言われています。

正則が死去し領地を没収された時に、正利は取り成しを願って、

父の遺品から「正宗」や「大光忠・貞宗」などといった名刀を、大御所・秀忠や将軍・家光に献上しています。

翌年幕府は、正利に没収した2万石の中から3112石を与えて旗本として取り立てます。

正利が献上した名刀の数々のおかげかは分かりませんが、なんとか福島家の名前を残すことが出来たのです。

しかし、やっと一安心かと思ったのもつかの間。

正利は子供のいないまま、37歳で死去してしまいます。

福島家はまたもや断絶のピンチを迎えるのです。

福島正勝

福島正勝は、忠勝の子である福島正長の長男です。

つまり、正則のひ孫に当たります。

1681年に時の将軍・徳川吉綱よしつなに召し出され、上総国長柄郡・夷隅郡、現在の千葉県に2000石の領地を与えられ旗本となります。

正利が亡くなったのが1637年ですから、実に44年振りの旗本復帰となります。

正勝から正視、正森、正韶、正聖と、福島氏は2000石の旗本として明治維新まで続くことになります。

 

きょうのまとめ

福島正則の子孫について紹介しましたがいかがでしたか?

途切れては繋がり、途切れては繋がりを繰り返しなんとか旗本として

江戸時代を生き抜いた子孫たち。

きっと壮大なドラマがあったのでしょうね。

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