福島正則の葛藤と大坂冬の陣

 

豊臣恩顧の武将の筆頭であり、豊臣家とは縁戚関係にもあった

福島正則(ふくしままさのり)ですが、関ヶ原の戦いでは徳川方の東軍に味方しました。

これは豊臣家を裏切ったわけではなく、西軍の実質的な総大将だった

石田三成(いしだみつなり)と仲が悪かったからだと言われています。

関ヶ原の戦いの後に起こった大坂冬の陣は、正則にとって葛藤の連続だったでしょう。

一緒に見ていきましょう。

大坂冬の陣と福島正則

大坂冬の陣で福島正則が何を思って葛藤していたのでしょうか。

紐解いていきましょう。

大坂冬の陣のきっかけ

そもそも大坂冬の陣はなぜ起きたのでしょうか。

きっかけは京都の方広寺の梵鐘(ぼんしょう)に刻まれた「 」、「 君臣豊楽 」という8文字だったと言われています。

方広寺は、豊臣秀吉が大仏を安置するために創建した寺ですが、1596年の大地震で大仏も寺も倒壊してしまっていました。

徳川家康の許しを得て、豊臣秀頼が再建することになります。

この方広寺の最後の仕上げとして完成したのがこの梵鐘でした。

家康の名前が切り離されている、これは不吉で家康を呪うものだ

と家康側から講義を受けます。

梵鐘の銘を考えた、南禅寺の僧・清韓(せいかん)が駿府城まで行き弁明しますが、家康は取り合わず徳川家と豊臣家の仲は険悪になります。

家康の言いがかりと言うか、現代ならクレーマーのような印象を与えます。

豊臣家を潰す手段を虎視眈々と狙っていたと言われても仕方がありません。

大坂には出陣出来なかった

方広寺鐘銘事件 」をきっかけに、豊臣家と徳川家の対立は避けられないものになっていきました。

江戸幕府を開いたとは言え、家康にとって豊臣家は目の上のたんこぶだったのでしょう。

豊臣家が浪人衆や兵糧(ひょうろう)を集めたりと、戦の準備を始めると、家康も軍を率いて大坂へ出発し大坂冬の陣が開戦されます。

関ヶ原の戦いから15年後のことです。

この時、正則は大坂へ向かう軍勢の中にはいませんでした。

「 留守居役(るすいやく) 」として江戸に留まっていました。

留守居役と言うと聞こえが良いですが、実際は軟禁状態だったとも言われています。

豊臣家に恩義がある正則は、いつ豊臣に寝返ってもおかしくないとされたのです。

ただただ待つしか出来なかった正則の心中は、さぞ複雑だったでしょうね。

豊臣家に兵糧を渡した?

正則は徳川家にとって危険人物とされ、大坂冬の陣への従軍は認められませんでした。

危険人物とされたのにも実は理由があります。

豊臣家が大坂の陣に備えて、兵糧を集めていることを知っていたにも係わらず、大坂にあった福島家の蔵から米を没収する事を黙認しました。

さらに正則の甥や一族の中にも豊臣家に付いた武将がいますが、正則は大坂城へ入城することを止めなかったと言われています。

こうしたことは、徳川家からしてみれば確かに疑わしい行動ですが、正則からしてみれば苦渋の決断だったのではないでしょうか。

豊臣家は潰したくない、けれど自分の家も守らなければならない。

兵糧を黙認したことは、正則なりの徳川家への反抗と豊臣家へのぎりぎりの忠義だったのかもしれません。

きょうのまとめ

大坂冬の陣と福島正則について見てきましたが、

いかがでしたか?

正則は、関ヶ原の戦いの後も徳川家と豊臣家の間を取り持とうとしています。

豊臣家の存続こそが、正則の願いだったに違いありませんが、

大坂冬の陣が起きてしまいます。

正則の心の葛藤は想像も出来ません。










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