朝倉義景とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

越前の国の名門家と言えば朝倉家です。

その朝倉家の11代目当主が

朝倉あさくら義景よしかげです。

織田信長を追い詰める活躍を見せるものの、結局は信長に敗れてしまいます。

迷走とも言える動きを繰り返したため、武将としての評価ははっきり言って良くありません。

そもそも朝倉義景という人物をあまり知らない人も多いのではないでしょうか?

朝倉義景とはどんな人物なのか、見ていきましょう。

 

朝倉義景とはどんな人?

プロフィール
朝倉義景あさくらよしかげ

朝倉義景
出典:Wikipedia

  • 出身地:越前(現在の福井県)
  • 生年月日:1533年
  • 死亡年月日:1573年9月16日(享年41歳)
  • チャンスを逃し続けた戦国大名

 

朝倉義景 年表

年表

西暦(年齢)

1533年(1歳)越前に生まれる。(幼名、長夜叉丸ながやしゃまる

1548年(16歳)父・考景の死去により、家督を相続。延景のぶかげと名乗る。

1552年(20歳)将軍・足利義輝から「義」の字を与えられ義景と改名。

1565年(33歳)義輝が暗殺され、その弟・義昭に上洛を依頼されるも拒否。

1568年(35歳)義昭と共に上洛した信長から上洛を求められるも拒否。信長との関係が悪化。

1570年(38歳)織田・徳川連合軍に攻められる。浅井長政が信長を裏切ったことで危機を脱する。

1570年(38歳)姉川の戦い。織田・徳川連合軍に敗戦。

1573年(41歳)一乗谷城の戦い。織田軍に大敗し、自刃する。

 

恵まれた環境を活かしきれなかった

朝倉家は越前の名門の戦国大名です。

越前は今の福井県ですから、天皇や将軍が暮らす京都とは近い位置にあります。

そのため、天皇や将軍に何かあればすぐに駆けつけられるという地の利を活かし、朝廷や将軍家と密接な関係を築いてきました。

将軍家からの信頼も厚く、義景の「義」も将軍・足利義輝から貰ったものです。

しかし義輝が暗殺され、義輝の弟・義昭が助けを求めて越前に逃れてきた時も歓迎こそすれど、上洛は拒否します。

もしこの時に義景が上洛していたら、義昭が信長を頼ることも無く、歴史は大きく変わっていたかもしれません。

将軍を擁護して上洛するという、最大のチャンスを義景は逃してしまったのです。

 

朝倉義景にまつわるエピソードや伝説

朝倉義景にまつわる様々なエピソードや伝説をご紹介します。

度重なる不幸でやる気を失くした

義景は子宝や家族には恵まれませんでした。

最初の妻は16歳の時に結婚した、細川ほそかわ晴元はるもとの娘でした。

この妻との間には女児が誕生しますが、出産の直後に亡くなってしまいます。

次の妻はたいそうな美人と評された人でしたが、子供が出来ずに離縁されてしまいます。

その後、義景にとって初めての男の子である阿君丸くまぎりまるを生んだのが側室であった小宰相こざいしょうでした。

跡継ぎも誕生し、朝倉家も安泰とさぞ喜んだことでしょう。

しかし、母である小宰相は出産後まもなくして病死。

阿君丸もわずか7歳で早世します。

足利義昭が義景を頼って越前に逃れてきたのがこの頃だと言われています。

妻と嫡男を続けて亡くし失意のどん底にいた義景は、上洛どころではなかったので、義昭の救援を断ったとも言われています。

戦国大名として、一家の当主としては大きなチャンスを逃したことになりますが、

人間らしいと言えば人間らしい判断とも言えますね。

武田信玄を怒らせる

義景は武田信玄を激怒させたことでも有名です。

武田信玄が近江の三河へ進行し、次々と徳川方の城を攻め落としました。

不利を悟った信長は岐阜へ撤退を開始します。

東と西から信長を挟み撃ちにする絶好の機会に、信玄は義景に協力を求めます。

浅井軍と共に出兵した義景でしたが、まさに戦いが始まるその時に、積雪と疲弊を理由に越前へ撤退してしまいます。

これには、武田信玄・本願寺顕如けんにょ・浅井長政もびっくり。

信長包囲網を乱し、みすみす信長を討つ好機を逃したわけですから、

信玄でなくとも激怒するのは当たり前です。

文化人としては優秀

戦国大名としては的確な判断が出来ずに、チャンスを逃しまくった義景ですが、

文化人としては優秀な一面を持っています。

自領である一乗谷に京都から優秀な人材や、有名な文化人を招き入れました。

雅やかな京文化が形成され、「北の京」とも言われました。

朝倉家当主が生活したとされる館は、17棟の建物があったとされ、畳を敷き詰めた部屋も多数あり、まさに御所のようであったとされています。

発掘調査では4つの日本庭園が確認されており、注目を集めています。

タイ製の壷や唐物茶碗など、高価な輸入品も出土していることから、豊かな文化圏であったことが伺えます。

 

きょうのまとめ

最後までお付き合い下さり、ありがとうございます。

朝倉義景とは?

① チャンスを逃し続けた戦国大名

② 続けて妻と子を亡くし、やる気を失くしてしまった

③ 勝手な行動で武田信玄を怒らせた

④ 戦は苦手だが、文化人としては優秀

どうも戦に関してはあまり得意でなかったようですね。

もし生まれたのが戦国時代でなかったら、名君と言われたのかもしれません。

 

関連記事 >>>> 「朝倉義景の子孫は?家系図を見てみよう」

関連記事 >>>> 「朝倉義景の家紋のルーツとは!?」

関連記事 >>>> 「明暗を分けた朝倉義景と織田信長、その差とは?」

関連記事 >>>> 「朝倉義景が残した2つの辞世の句」

目次に戻る ▶▶

 

その他の人物はこちら

戦国時代に活躍した歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【戦国時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

時代別 歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

17 − 6 =