戦国時代において、関東の覇者となった後北条氏。
そんな後北条氏の最盛期を築いたのが、北条氏康です。
北条氏康とは、どんな人物だったのでしょう。
今回は北条氏康の生涯と有名なエピソードを、簡単にまとめました。
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北条氏康はどんな人?
- 出身地:小田原もしくは韮山
- 生年月日:1515年
- 死亡年月日:1571年10月3日(享年57歳)
- 後北条氏の最盛期を築いた戦国大名。氏政の父。
北条氏康 年表
西暦(年齢)
1515年(1歳)小田原もしくは韮山で誕生(幼名、伊豆千代丸)
1523年(9歳)「伊勢」から「北条」に改姓
1529年(15歳)元服
1530年(16歳)初陣
1535年(21歳)婚姻(正室・瑞渓院殿)
1537年(23歳)河越城合戦
1538年(24歳)第一次国府台合戦
1541年(27歳)父・氏綱が死去し、北条家三代当主の座に
1545年(31歳)今川義元に敗北。上杉憲政らが河越城を包囲
1546年(32歳)河越合戦
1550年(36歳)税制改革。上杉憲政の本拠地・上野平井城攻略を開始。左京大夫任官
1552年(38歳)山内上杉憲政を越後へ追いやる
1554年(40歳)甲相駿三国同盟の締結
1556年(42歳)里見義弘による三浦半島攻略
1559年(45歳)北条氏所領役帳の作成。息子・氏政に家督を譲り、隠居
1560年(46歳)徳政令発布
1561年(47歳)小田原に侵攻した上杉謙信を撃退
1563年(49歳)松山城攻略
1564年(50歳)第二次国府台合戦
1566年(52歳)臼井城攻防戦。相模守に
1568年(54歳)武田信玄が今川領へ侵攻(甲相駿三国同盟の破棄)
1569年(55歳)越相同盟締結
1570年(56歳)病に倒れる
1571年(57歳)死去
民政にも力を注いで後北条氏の最盛期を築く
北条氏康は、戦国大名北条家(=後北条氏)の2代目・氏綱(早雲の子)の嫡男として誕生しました。
母は養珠院、幼名は伊豆千代丸と言います。
はっきりしない幼少時代
氏康の誕生地は小田原説のほか韮山説もあるなど、幼少時代のことははっきりしていません。
なお父親の氏綱が「北条」に名前を変えたのは、氏康が生まれた後のタイミング。
ですので正確には、氏康は伊勢家の嫡男として生まれていたことになります。
元服した翌年、初陣を飾ったとされる氏康。
父に従い、
・1538年第一次国府台合戦(小弓公方足利義明と里見義尭らとの戦い)
などで戦功を挙げました。
河越合戦
1541年父の氏綱が55歳で亡くなると、氏康は家督を継承。
3代目の当主になります。
1545年今川義元が北条方に奪われていた駿河河東(現在の静岡県)の奪還に動きます。
それに呼応したように、
・扇谷上杉朝定
・足利靖氏
が河越城(現在の埼玉県川越市)を包囲。
窮地に陥った氏康は、まず今川義元と講和を結びます。
また山内上杉憲政らとも講和を結ぼうとしますが、交渉は難航。
すると一転、氏康は包囲された河越城に援軍を送り奇襲攻撃にて撃破します。
この戦いにより、扇谷上杉家(関東管領上杉氏の支流。なお、本流は山内上杉氏)は滅亡することになります(河越合戦/1546年)。
一方氏康は山内上杉憲政の本拠、上野平井城に迫ります。
しかし憲政は上杉謙信(このころは長尾景虎)を頼って、越後へ逃れました。
ここに、謙信との抗争が始まることになります。
甲相駿三国同盟
1554年氏康は今川義元・武田信玄と同盟を締結します。
いわゆる「甲相駿三国同盟」と呼ばれるもので、何か事が起これば、お互いに援軍を送るという積極的な同盟でした。
1561年上杉謙信によって小田原城が包囲されますが、氏康は信玄らの支援を受けてこれに対抗しています。
1559年氏康は嫡男氏政に家督を譲って隠居。
出家得度して「太清軒」と名乗るようになりますが、実権は握り続けていました。
1561年には、またも上杉謙信が小田原を包囲するものの、撤退。
氏康は反撃に転じ、
・1564第二次国府台合戦(謙信側についていた、里見義堯・里見義弘らとの戦い)
と勝利を収めます
なお氏康にとって、第二次国府台合戦が最後の出陣になったとみられています。
武田信玄の侵攻
今川義元亡き後の1568年、武田信玄が今川領の駿河に侵攻します。
ここに甲相駿三国同盟は破棄されることになりましたが、このとき北条勢は今川について戦いました。
そしてかつての宿敵・上杉謙信と越相同盟を結ぶに至ります。
結局うまく機能せず氏康の死後、氏政はこの同盟を破棄することになります。
駿河侵攻を北条に邪魔された武田信玄は、今度は北条領の武蔵へと侵攻。
さらに小田原城を攻めますが、撤退しています。
ところがその後またもや信玄は今川領、北条領を攻め、北条方は大きな痛手を被りました。
そういった状況の中、氏康は病に倒れ永眠(享年57)。
最後は信玄が侵攻してきたことすら、わからなくなっていたといいます。
北条氏康にまつわるエピソードや伝説
それでは北条氏康にまつわる有名なエピソードなどを4つ、ご紹介します。
恥を晒して自害しようと
家臣たちの武術(槍もしくは剣術、鉄砲という説があります。)の稽古を見ていた12歳の氏康少年は、その迫力に圧倒されて気を失ってしまいます。
そんな当時の氏康は、家臣たちには「臆病者」と映ったのでしょう。
一方、恥を晒してしまったと思い詰めた氏康少年は、なんと自害しようとしたのです。
しかし清水吉政という傅役を務めていた家臣が、
「初めて見るものに驚くのは恥ではない」
「臆病を自覚している者は本当の臆病者ではない」
などと、氏康少年を諭したと伝わっています。
そんな「臆病者」も、大人になれば「相模の獅子」と呼ばれるほどの大器に。
清水吉政は、褒めて伸ばすタイプの人間だったのですね。
領民に愛された氏康
北条氏康の死を知った領民たちは、涙を流して悲しんだと伝わっています。
その理由は、「祿壽應穩」という思想に基づく領民支配を行っていたからと考えられます。
祿壽應穩とは「民の命と財産を守る」という意味で、北条宗家当主以外は捺印することのできない、朱印にも使われている言葉です。
氏康は、領民の負担を軽くするような政策を打ち出していました。
例えば1550年に行われた税制改革では、それまで代官が勝手に領民に課していた税金(諸公事という、畑に課されていた税金)を廃止。
その代わり、直轄領内一律の税金(懸銭という、畑の貫高(=土地の収穫高を通貨単位で表したもの)に対して課される税金のこと)をかけることにしました。
この施策により、領民の負担は軽減されるとともに、税収をアップさせることに成功。
他にも大規模な徳政令を発したことにより(1560)、年季売りされていた人々は呼び戻され、下層農民の負担を軽減することにも成功しました。
娘への引き出物は農業用水
北条・今川・武田の間に甲相駿三国同盟が結ばれた際、より同盟を強固にするため、婚姻関係が結ばれました。
武田信玄の嫡男・義信 ♡ 今川義元の娘・嶺松院
今川義元の嫡男・氏真 ♡ 北条氏康の娘・早川殿
北条氏康の嫡男・氏政 ♡ 武田信玄の娘・黄梅院
このように、3つの家が互いに娘を嫁がせたのです。
そして氏康は、娘の早川殿が今川家に嫁ぐ際、引き出物として送ったのは農業用水だったといいます。
その農業用水は千貫樋と呼ばれ、伊豆と駿河の国境にまたがっており、今川領へと水を送るものでした。
ここにも、氏康の民を思う気持ちが表れているのではないでしょうか。
鎌倉尼五山第一位「太平寺」がなくなった理由
さて、「鎌倉尼五山」をご存知でしょうか。
鎌倉で格式の高い、5つの尼寺のことです。
- 第一位 太平寺
- 第二位 東慶寺
- 第三位 国恩寺
- 第四位 護法寺
- 第五位 禅明寺
ですが、これらのうち現在も残っているのは第二位の東慶寺のみ。
他のお寺はすべてなくなってしまったのですが、第一位の太平寺を廃寺にしたのは北条氏康でした。
きっかけは1556年、安房(あわ/現在の千葉県南部)の里見義弘が三浦半島に上陸、鎌倉へと攻め入ってきたときのこと。
このとき義弘は、許嫁であった青岳尼という人物を奪回しに来ていました。
青岳尼とは、第一次国府台合戦(1538)で滅んだ足利義明の娘。
第一次国府台合戦で氏康に保護され、太平寺の住持となっていた人物です。
里見義弘は太平寺に駆け付け、青岳尼と再会。
そして青岳尼は義弘とともに国へ帰ったのですが、その際なんと、太平寺の本尊(聖観世音菩薩像)を持ち去ったのです。
これに激怒した氏康は、太平寺を廃寺とすることを決め、再建することも許しませんでした。
なお持ち去られた本尊は現在、東慶寺宝蔵に収められています。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。北条氏康についていかがでしたでしょうか。
北条氏康とは?
① 河越合戦で扇谷上杉家を滅ぼす
② 今川義元・武田信玄と甲相駿三国同盟を締結。後北条氏の最盛期を築く
③ 民政にも力を注いだため、領民たちから愛されていた
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