徳川慶喜によるまさかの「大政奉還」。「王政復古の大号令」との違いは?

 

幕末は戦国時代と並び歴史ファンに人気の時代ですが、少し難しい用語に出くわすこともありますね。

今回は、幕末における決定的なイベントと言われる徳川慶喜「大政奉還」とその後に起きた「王政復古の大号令」について説明しましょう。

 

徳川慶喜の大政奉還とは何?

徳川慶喜

徳川慶喜
出典:Wikipedia

徳川家康が江戸幕府を開いて以来、徳川家はずっと幕府のトップとして君臨し政権を握ってきました。

ところが、1867年その政権を朝廷に返還したというのが「大政奉還」です。

一体これはどんな経緯で何のために行われたのでしょうか。

当時の社会情勢


徳川慶喜が将軍になったのは1866年。

当時日本の将来を巡って以下の2つの派閥が争っていました。

公議政体論派

越前藩、尾張藩、土佐藩が中心。江戸幕府を主体としながら朝廷と諸侯の会議によって国を動かし近代化を狙おうとした。

武力倒幕派

薩摩藩、長州藩が中心。江戸幕府を倒して新しい政治体制を作ろうとした。

当初、両派閥は互角でした。

ところが強硬な「反倒幕派」だった孝明天皇が崩御。

これにより状況が一変します。

「武力倒幕派」の公家・岩倉具視が若年の明治天皇を擁立して、形勢は一気に倒幕へと傾いたのです。

内戦や倒幕を避けるための方策

徳川慶喜が将軍に就任する少し前に、薩摩藩と長州藩が薩長同盟結び、幕府は第二次長州征討に失敗していました。

もし幕府が薩長を敵に回して戦えば、徳川家が負けてしまう可能性が濃厚です。

それに、戦いを繰り広げれば国内が内戦状態にもなってしまいます。

徳川慶喜は戦いを避けたいと考えていました。

公議政体論派の土佐藩も同様です。

日本が内戦状態になることや、それに外国勢力がつけ入ることなどを心配したのです。

そこで土佐藩は徳川慶喜に「大政奉還の建白書」を提出しました。

大政奉還とは

これまで、徳川慶喜に至るまで15代続いた徳川将軍は

「朝廷から征夷大将軍に任命され、朝廷から政権を預かって」

江戸幕府を動かしていました。

建白書とは、

「政権を徳川から天皇に返し、天皇の下で徳川将軍が各大名たちの中心となる新しい議会を設立しよう」

という起死回生のアイデアが詰まったものだったのです。

この方法ならば、慶喜が権力を失うことはありません。

幕府が、武力倒幕派に勝てそうもないことを知っている徳川慶喜は、政権を平和的な方法で朝廷に返上させるこの案を受け入れる決断をしました。

大政奉還の実行

1867年10月14日、第15代将軍・徳川慶喜は265年間徳川家が担ってきた政権を天皇に返上する旨を明治天皇に上表しました。

翌日、明治天皇にこれが認められると、長く続いた徳川幕府は終焉を迎えたのでした。

これが「大政奉還」です。

さて、これに驚いたのは武力倒幕派の面々です。

幕府の権力が「奉還」されたので、幕府がなくなり、倒幕する理由を失ってしまいました。

こうして慶喜はまんまと倒幕派の機先を制したわけです。

慶喜は大政奉還後も政治の主導権を持っているのは彼自身であり、旧幕府だと考えていました。

長く政権とは関わっていなかった朝廷には、政治力も外交力もなかったからです。

実際、しばらくの間は旧幕府が従来通り政務を行っていました。

こうして徳川慶喜の大英断で幕府側はピンチを切り抜けたかのように見えたのですが・・・。

 

大逆転!王政復古の大号令


倒幕しようにも幕府がなくなり困った薩摩藩と長州藩。

とはいえ、徳川慶喜がリーダーの議会など、理想の政治が行えるわけないのは明白ですから納得できません。

そこで彼らはクーデターを起こしたのです。

1867年12月9日、徳川家以外の雄藩だけが御所に参内し、明治天皇臨席のもとで

「天皇をトップとする諸藩連合政権の新体制を作る」と宣言。

これが「王政復古の大号令」です。

新体制派は同時に徳川慶喜の領地の返還内大臣の役職を返上することを決定しました。

今度は徳川慶喜が政権の場から排除され、薩長に逆転負けを喫してしまったのです。

1868年にはこれが原因で旧幕府勢力と新政府軍との「鳥羽・伏見の戦い」が始まることになったのでした。

 

大政奉還と王政復古の大号令の違い

「大政奉還」と「王政復古の大号令」は似ているように思えますが、実行した人物たちの立場が全く逆です。

大政奉還とは、徳川慶喜が天皇に奉じた「自ら政権を朝廷に返上しながらも、最大の大名として政治をリードしようとした」徳川幕府側の行動。

王政復古の大号令は「天皇中心の新政府のために徳川家から官位と領土の全てを取り上げ、薩長をメインにした新政府を樹立する」朝廷の宣言だったのです。

 

きょうのまとめ

今回は、幕末の一番のクライマックス「大政奉還」の説明と「王政復古の大号令」との違いについてご紹介しました。

簡単なまとめ

① 1867年徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜は大政奉還を行った

② 「大政奉還」とは慶喜が徳川家の権力を温存しながら政権を朝廷に返上したこと

③ 「王政復古の大号令」とは天皇をトップに徳川家なしで薩長をメインにした新政府を樹立する宣言

一度は徳川慶喜が倒幕派を出し抜いたように見えた「大政奉還」。

そしてその後の薩長による「王政復古の大号令」。

これらの一連の出来事によって、あの江戸幕府と将軍とが消滅してしまったのでした。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku