徳川慶喜とその子孫と家系図について

 

江戸幕府最後の将軍

徳川慶喜

幕府最後というだけでなく、

日本史上最後の将軍でもあります。

鳥羽・伏見の戦い、戊辰戦争後、慶喜の名前はほとんど登場しません。

徳川家はどうしていたのか、子や孫たちはどうしていたのか気になります。

見て行きたいと思います。

 

徳川慶喜の家系図

まずは、徳川慶喜の家系図からみていきましょう。

こちらです。

徳川慶喜の家系図
徳川慶喜の家系図

徳川慶喜と子どもたち

激動の時代を生きた徳川慶喜と子孫達。

側室との間に十男十一女をもうけました。

時代が時代なので、
早逝された子もおりました。

息子達は名家へ養子に入っており、
娘達も同様です。

慶喜の母は有栖川宮家の吉子女王であり、
彼らには皇族の血が入っています。

慶喜は幕府朝廷という二つの政権トップを背負っていたわけです。

徳川家最後の将軍にふさわしい感じがしますね。

 

大政奉還後の徳川慶喜

徳川慶喜家設立?!

慶喜は大政奉還後、征夷大将軍を辞職。

謹慎し、隠居して、
御三卿の一つである田安徳川家の家達に徳川宗家の家督を譲りました。

明治になりだいぶ経ってから公爵になり、
徳川宗家とは別に徳川慶喜家を興しました。

七男の慶久が跡を継ぎ、
慶喜の血は受け継がれて行きます。

皇室へ嫁がれた孫 喜久子様

慶久は有栖川宮家の實枝子女王と結婚しました。

慶喜の孫であり、
慶久の次女である喜久子様は、
昭和天皇の弟宮である高松宮宣仁親王殿下
1930年にご結婚されました。

今上天皇と美智子皇后の婚姻に反対されたことで有名な方でもあります。

ですが、
晩年は紀宮様(現在は黒田清子さん)を非常にかわいがって
いらしゃったそうです。

ホッとしますね。

喜久子様の人生は医療との関わりが深いです。

ご自分の母上を癌で亡くしておられ、
それがきっかけで生涯を医療活動に関与していかれました。

高松宮妃癌研究基金を設立されました。

それからハンセン病患者の救済運動にも関わり、
高松宮記念ハンセン病資料館(現在の国立ハンセン病資料館)を設立されました。

積極的に活動されていたことがうかがえますね。

そんな喜久子様ですが、
ご存知の通り夫である高松宮殿下を癌で亡くし、
自らも癌にかかり闘病され、

92歳で薨去されました。

徳川慶喜家最後の当主 慶朝さん

慶喜のひ孫である慶朝さん。

広告制作会社のカメラマンとして活躍後、

フリーとなり、
徳川家に関する遺跡や建造物を主に撮影していました。

また、徳川慶喜家秘蔵の写真の保存、整理、修正もしていました。

慶喜の晩年の趣味は写真撮影

慶喜という人物を彷彿させますね。

血筋でしょうか。

写真以外にもお二方には共通点がもう一つあります。

コーヒーです。

慶喜は大のコーヒー好きでした。

慶朝さんもコーヒー好きが高じて
ご自分で焙煎したコーヒーを、
水戸徳川家ゆかりの地である茨城県のコーヒー会社で販売していました。

そんな慶朝さん、
残念なことに2017年9月にお亡くなりになられてしまいました。

67歳でした。

慶朝さんプロデュースした、
慶喜が飲んだであろう当時のコーヒーを再現した

「徳川将軍珈琲」は現在ではも販売されています。

徳川慶喜家は慶朝さんで終わってしまいましたが、
そのコーヒーを飲むことで彼らに思いを馳せることができますね。

 

きょうのまとめ

徳川慶喜とその子孫と家系図について、

いかがでしたでしょうか。

簡単にまとめると、

① 大政奉還後、徳川慶喜家を興す

② 慶喜の孫、喜久子様は高松宮宣仁親王殿下とご結婚

③ 徳川慶喜家の最後の当主は、フリーカメラマンとしてご活躍された徳川慶朝さん

最後の将軍の子孫ということで

注目を浴びながらも、

それぞれに活動的な人生を送られていたのは素晴らしいですね。

 










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