北条政子とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

日本史上の女性の政治家として、北条政子はダントツの知名度を誇る女性でしょう。

その彼女の人生を私たちはどれほど知っているのでしょうか。

北条政子とはどんな人物だったのか、

彼女の人生の何がその知名度を後押ししたのでしょうか?

 

北条政子はどんな人?

  • 出身地: 伊豆国(現在の静岡県)
  • 生年月日: 1157年
  • 死亡年月日: 1225年7月11日(享年69歳)
  • 将軍源頼朝の正室であり、夫の死後は鎌倉幕府と御家人を率いたエネルギッシュな尼将軍

 

北条政子 年表

年表
西暦(年齢)

1157年(1歳)伊豆国の豪族北条時政の長女として誕生

1177年(21歳)流人であった源頼朝との仲を知られ、山木兼隆(かねたか)と結婚させられそうになったが、頼朝のもとへ走った

1180年(24歳)夫・源頼朝が平家討伐のために挙兵

1182年(26歳)のちの2代将軍頼家を出産

1185年(29歳)壇ノ浦の戦いで平家が滅ぶ

1192年(36歳)夫・頼朝が征夷大将軍となる。のちの3代将軍実朝を出産

1199年(43歳)頼朝急死。頼家が2代将軍に就任。政子出家

1203年(47歳)頼家を出家させ将軍職を奪う。実朝が3代将軍に就任。父・時政が執権に就任

1219年(63歳)実朝が暗殺される

1221年(65歳)承久の変

1225年(69歳)死没

 

御台所から尼御台へ、そして尼将軍となった北条政子

源頼朝の妻で、北条時政の娘であった北条政子。

彼女の人生における境遇の変化は、
その呼び名が変わっていったところに象徴されます。

政子は周囲の反対を押し切って、
駆け落ち同然で伊豆の流人・源頼朝の妻となりました。

頼朝は1180年に平氏打倒のために挙兵します。

頼朝が本拠を構えるのを受けて政子も鎌倉入りをしました。

「 御台所(みだいどころ) 」と呼ばれながら、
鎌倉幕府の基盤造りに貢献。

頼朝が1192年に征夷大将軍に任じられる頃までに、
のちの2代将軍頼家、3代将軍実朝を出産しました。

1199年、頼朝は落馬が元で急死します。

その前に娘の大姫も20歳で亡くしていた政子は、
頼家が家督を継いだ後に出家。

尼でありながら、
2代将軍頼家の後見役として執政に関与します。

そして「 尼御台(あまみだい) 」と呼ばれるようになりました。

しかし将軍頼家は政権を顧みず、
御家人たちの不満が高まります。

さらに頼家の妻の実家比企氏の台頭を不安に感じた政子は、
父親の時政と共に比企氏を滅ぼし、頼家を幽閉。

のち頼家は変死します。

次に3代将軍となった実朝には、
政子の父時政が執権として就任。

しかし、時政とその妻が政権を独占しようとしたため、
政子と彼女の弟・義時がこれを阻止して、時政を追放。

のち義時が執権となりました。

実朝は公家政権との融和を図った政治を進めましたが、
御家人たちは不満を唱え、対立し始めます。

1219年、実朝が鶴岡八幡宮にて甥の公暁に暗殺されます。

実朝亡き後は摂関家から将軍を迎え、政子が将軍代行をする「 尼将軍 」となりました。

1221年、朝廷の権力回復を臨む後鳥羽上皇が挙兵(承久の乱)。

朝廷を畏れて動揺する鎌倉の御家人たちを、政子は一世一代の演説で鼓舞し、19万騎が京へと進軍。

後鳥羽上皇は、予想外の幕府の襲撃に降伏し、
隠岐島へと流されました。

1224年に北条義時が亡くなると、
政子は義時の子泰時を執権に立て、時房を補佐役とします。

その後、政子は幕府の動揺を狙ったクーデター計画も未然に防ぎます。

そして泰時と時房による幕府新体制が軌道に乗り出したのを見届けると、「 尼将軍 」政子は病に倒れ、息を引き取りました。

 

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誰も知らない北条政子

歴史上の人物として、
まず知らない人はいないくらい有名な北条政子。

ところがその彼女の名を、夫頼朝、息子の頼家、
そして彼女の父親である時政も知らないと言ったら、
ちょっと驚きませんか?

もちろん、政子の家族は自分たちの妻であり、
母であり、娘である女性のことは知っています。

でも、その女性の名前が「 北条政子 」だとは思っていないはず。

なぜなら、「 政子 」という名前がつけられたのは、
1218年。

従三位(じゅさんみ)という位を朝廷から授与されるのにあたって、
記録に残すためでした。

父親である時政から一字をもらって即席で付けた名前「 政子 」。

その時、頼朝も時政も頼家も既に亡くなっていました。

かろうじて実朝だけはまだ存命でしたから、もしかしたら知っていたかもしれませんが。

政子は出家後には「 尼御台所(あまみだいどころ) 」と呼ばれました。

その後二位の位を貰ってからは「 二位の尼 」「 禅定二品(ぜんじょうにほん) 」「 尼将軍 」と呼ばれました。

本人さえ「 政子 」の自覚はなかったでしょう。

北条家の政子、ということで北条政子と呼ばれるのが一般的になったのは、
実は昭和に入ってからのことです。

 

北条政子に対する歴史的評価

北条政子に対する歴史的な評価は、
その時々の時代を反映していました。

まず、鎌倉時代に成立した日本の歴史書である『 吾妻鏡 』。

中国の前漢の劉邦の皇太后や神功皇后と並べて政子の活躍を賞賛しています。

天台宗の僧である慈円が書いた歴史書『 愚管抄 』や、承久の乱を記録した合戦記『承久記』も同様です。

しかし、これらの歴史書は、いずれも政子が生存していた時に大半が書かれたものだと思われます。

多少政子に寄った書き方だったかもしれません。

そして、室町時代になっても一条兼良(いちじょうかねら)や北畠親房(きたばたけちかふさ)、今川貞世(いまがわさだよ)によって鎌倉幕府を率いた政子への高い評価が述べられています。

その後、江戸時代になると新井白石の『大日本史』や頼山陽などの政子評価は、儒教の影響で変わってきます。

彼らは、政子の鎌倉幕府主導については評価します。

しかし、頼家や実朝の変死、政権が源氏から政子の実家北条氏に取って代わったことが婦人としての倫理に欠けるというのです。

また、この頃より政子の嫉妬深さについても批判の対象としてクローズアップされるようになりました。

同人物に対しても、時代が変われば評価も変わっていくものですね。

 

[関連記事: 日本三悪女の一人と言われる北条政子。本当は?]

 

きょうのまとめ

最後までお読み頂きありがとうございました。

北条政子とは、

① 私情を断って鎌倉幕府に貢献した尼将軍

② 実は昭和以降に一般的になった名前

③ 鎌倉幕府への功績をたたえられながら、倫理的な点で評価の分かれる人物

その他にも北条政子にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞご覧ください。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku