徳川慶喜が残した家と子孫のゆくえ

 

江戸時代の武家政権トップとして、15代続いた徳川将軍家の幕引きを行った人物

徳川慶喜よしのぶ

この人物のあとの日本の歴史に「将軍」は存在しません。

今回は、そんな彼の家系、そして子孫についてご紹介します。

 

徳川慶喜の系図

徳川慶喜

徳川慶喜
出典:Wikipedia

本文に登場する人物を中心とした系図です。

系図

 

徳川慶喜の家族

徳川慶喜は、将軍家に生まれたわけではありません。

水戸徳川家から一橋徳川家に養子に入り、そこから将軍家に転出されて将軍になりました。

水戸徳川家における徳川慶喜の家族構成は以下のようになります。

実父徳川斉昭なりあき。幕末に藩政改革に尽力した水戸藩第9代藩主。

実母吉子女王よしこじょおう。正室である有栖川宮織仁親王の第12王女。慶喜は皇室の血も受け継いでいる。

兄弟姉妹:父親の斉昭が子沢山だったため、男女合わせて30人以上の実・異母兄弟姉妹があった。

水戸徳川家を継いだ徳川慶篤よしあつ

因幡いなば鳥取藩12代藩主・池田慶徳よしのり

備前びぜん岡山藩9代藩主・池田茂政もちまさ

会津松平家10代当主・松平喜徳まつだいらのぶのり

常陸ひたち水戸藩11代藩主・徳川昭武あきたけ

など

慶喜自身はのちに水戸徳川家を出て一橋徳川家の養子となりました。

一橋家の第8代当主でありながら2歳で夭折した徳川昌丸まさまるの跡を継ぎ、1847年に第9代当主となったわけです。

そして彼は1866年に将軍に就任しました。

 

徳川慶喜の子供たち

旧幕府軍が敗戦した戊辰戦争の後、隠遁生活を送っていた徳川慶喜は、のちに明治新政府に罪を許されました。

結局、徳川宗家は慶喜ではなく、分家であり「御三卿ごさんきょう*」の一つ田安家出身の徳川家達いえさとが継いでいます。

(*御三卿:徳川将軍家後嗣がない場合に、後継者を提供する役割のあった田安家・一橋家・清水家の三家のこと)

慶喜は1888年には大政奉還の功によって従一位に叙され、1902年には公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家とくがわよしのぶけを創設したのです。

慶喜の正室は、今出川公久の娘・一条美賀子いちじょうみかこです。

彼女と慶喜との間に生まれた子供は夭逝しており、その後の2人の間には子はありません。

しかし慶喜は子沢山でした。

彼には正室以外に3名の側室があり、そのうち2名との間には20名以上の子供があったのです。

夭折した者もいるのですが、成人した者たちの中には、

・宗家の分家家督を継いだ4男・あつし

・徳川慶喜家(別家)を継いだ慶久よしひさ

・別家の分家を継いだ9男・まこと

などがいます。

 

徳川慶喜家の系譜

ここでは、徳川宗家の別家であり、慶喜が明治維新後に創設した徳川慶喜家の家系を辿ってみましょう。

【2代目】子・徳川慶久

徳川慶喜の後を継いだ2代目は側室・新村信しんむらのぶとの間に生まれた7男・慶久です。

東京帝国大学を卒業後、貴族院議員になりました。

けいきゅう樣と呼ばれ、柔道、囲碁、ビリヤード、乗馬、ゴルフ、油絵などに優れた多才な人物でした。

しかし、37歳の若さで脳出血にて亡くなってしまいました。

【3代目】孫・徳川慶光

慶喜の孫、3代・慶光よしみつは、慶久の急死により10歳で父親の爵位を受け継ぎました。

東京帝国大学進学後は、宮内省図書寮に勤務。

しかし終戦後の華族制度の廃止に伴い、爵位も貴族院議員の議席も失いました。

財産税の支払いのために自宅を物納することにもなり、華やかな暮らしが続けられたわけではありませんでした。

80歳にて死没。

【4代目】ひ孫・徳川慶朝氏

徳川慶喜家第4代・慶朝よしとも氏は、慶光の3名の子供の末っ子で、長男でした。

慶朝氏は、母親の和子さんの血筋により、幕末に活躍した会津藩主・京都守護職の松平容保のひ孫でもありました。

慶朝氏は成城大学経済学部を卒業し、広告制作会社に20年間勤務後、フリーの写真家として独立。

コーヒー好きで、茨城にて「徳川将軍珈琲」の開発と販売もされていましたが、2017年心筋梗塞で亡くなられました。

彼は離婚した長岡子爵家の長岡貴子さんとの間に2男1女がありましたが、3人のお子さんたちは長岡姓を継いでおられるので、慶朝氏のあとを継ぐ人はいなかったのです。

つまり、慶朝氏の死亡により、徳川慶喜家の嫡流は断絶したことになります。

離婚後独身生活を送っておられた慶朝氏は、

「誰かに家を継がせたいという欲はない。過去は大切に思うけど、それに縛られないで生きていけばいいのです」

とおっしゃっていたそうです。

その他の慶喜の孫

徳川慶喜の孫として、徳川慶喜家ではありませんが現代で活躍された女性についてご紹介しましょう。

1人目は徳川喜久子きくこ(慶光の姉)さん。

のちに高松宮宣仁親王たかまつのみやのぶひとしんのうの后となって宣仁親王妃喜久子のぶひとしんのうひきくこと呼ばれました。

ガンの撲滅ハンセン病患者の救済のための活動で知られています。

1987年に宣仁親王、また2004年には彼女自身がそれぞれ薨去こうきょし、高松宮家は廃絶となりました。

2人目は井出久美子いでくみこ(慶光の妹)さんです。

95歳だった2018年、最後の将軍の孫として送った彼女の波乱万丈な人生をつづった自叙伝『徳川おてんば姫』を著しました。

著作の発売直後に体調を崩され、亡くなられましたが、彼女の執筆活動を支えたご子息の井手純氏がご健在です。

 

きょうのまとめ

今回は、日本の最後の将軍・徳川慶喜の家系や子孫についてご紹介しました。

簡単なまとめ

① 徳川慶喜は水戸藩主・徳川斉昭の子だが一橋家に養子に行ったあと将軍家を継いで将軍となった

② 慶喜は明治維新後に徳川宗家とは別の徳川慶喜家を創設した

③ 現代にも慶喜の血を受け継ぐ子孫はいるが、徳川慶喜家は4代目徳川慶朝氏を最後にして断絶した

徳川慶喜の血統を受け継ぐ子孫は現代に続いていますが、 彼が創設した徳川慶喜家は断絶してしまいました。

残念な気もしますが、最後の当主・徳川慶朝氏に後悔はなかったのでしょう。

 
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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku