岩倉具視とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

明治維新といえば、
西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允ら藩士たちが成し遂げたというイメージがあると思います。

しかし倒幕派と呼ばれた彼らは、
天皇・朝廷と結びつくことによって革命をもたらすことに成功したのです。

その結びつきに重要な役割を果たした人物の一人が、

岩倉具視(いわくら・ともみ)です。

それでは、岩倉具視とはどんな人物だったのでしょうか。

今回は岩倉具視の生涯について、簡単にご紹介していきます。

 

岩倉具視はどんな人?

プロフィール
  • 出身地: 京都
  • 生年月日: 1825年10月26日
  • 死亡年月日: 1883年7月20日(享年 59歳)
  • 討幕派と組んで王政復古を成し遂げた。明治政府では欧米を視察、欽定憲法や天皇制の確立に尽力した人物。

 

岩倉具視 年表

西暦(年齢)

1825年(1歳)下級公家・堀河康親の次男として生まれる(幼名は周丸/かねまる)。

1838年(14歳)岩倉具慶(ともやす)の養子に入る。

1858年(34歳)廷臣八十八卿列参(ていしんはちじゅうはちきょう・れっさん)事件。

1862年(38歳)薩摩藩と接触する。幕府との通牒を避難され、蟄居。謹慎生活を余儀なくされる。

1866年(42歳)孝明天皇の死後、討幕派との積極的な接触。

1867年(43歳)王政復古の大号令。

1871年(47歳)岩倉使節団の大使として欧米に派遣。

1873年(49歳)帰国する。明治六年政変。

1874年(50歳)赤坂喰違の変。

1883年(59歳)死去。

 

下級公家として生まれるも政治家として活躍する

岩倉具視は生まれたのは下級の公家、養子に入った先も同様でした。

岩倉家というのは村上源氏(※1)であったため、藤原氏が主流の朝廷では日の当たらない存在だったそうです。

ですが岩倉具視は公家らしからぬ?強い意志と行動力の持ち主でした。

幕府に対する朝廷の力を回復し、さらには藤原氏によって独占されてきた朝廷の役職の打破を目指していたのです。

※1村上源氏とは、村上天皇の皇子・具平(ともひら)親王の子である源師房(みなもとの・もろふさ)から始まる源氏の一族のことです。

朝廷で前代未聞の事件を起こす

岩倉は

 廷臣八十八卿列参(ていしんはちじゅうはちきょう・れっさん)事件 」で、

頭角を現します。

廷臣八十八卿列参とは、幕府が要請した通商条約勅許に反対した88人の公卿(くぎょう)たちが、関白の九条尚忠(くじょう・ひさただ)のところに押しかけて、朝議をひっくり返したという事件です。

朝議: 朝廷の会議のこと

この前代未聞の事件の首謀者の一人が、岩倉具視でした。

これを機に、岩倉は孝明(こうめい)天皇からの信頼を得ることになりました。

当初は公武合体派だった岩倉

その後、岩倉は朝廷の発言力を強めるため、江戸幕府第14代将軍・家茂(いえもち)と天皇の妹・和宮(かずのみや)の政略結婚に尽力しました。

幕府と朝廷を提携することで、政局を安定させようとする考え方を「公武合体」と言います。

当時、公武合体派であった薩摩藩の島津久光(しまづ・ひさみつ)が京へやって来た時、他の公家たちは尻込みしたそうです。

しかし岩倉は自ら進んで薩摩藩と接触し、久光を援助しています。

5年間の謹慎生活後は討幕派に

世の中では次第に尊攘論(※2)が高まり、幕府と通じて和宮の政略結婚を推し進めたことを避難され、岩倉は謹慎生活を送ることになります。

※2 尊攘論とは、①天皇を敬うという考え方である「尊王(そんのう)論」と②外国人を追い出そうという考え方である「攘夷(じょうい)論」が結合した思想のことです。

ですが岩倉はそれにくじけることなく、朝権の回復を訴え続けたそうです。

気概が違いますね。

孝明天皇が亡くなると、岩倉に対する処分も緩やかになりました。

そこで岩倉は、積極的に討幕派と接触します。

薩摩藩の大久保利通との関係も密接になり、やがてこれが王政復古の大号令へと繋がるのでした。

明治新政府では最高幹部に

明治新政府が誕生すると、岩倉は政府の最高幹部になります。

廃藩置県を実施したり、江戸時代に結ばれた不平等条約改正のための使節団の大使として、欧米各国へ歴訪するなどしました。

しかし明治7年1月、赤坂の喰違(くいちがい)で襲われましたが、九死に一生を得ます。

これは前年の明治六年の政変で岩倉は恨みを買っていたため、その報復だったとされています。

それから9年後、岩倉はがんでこの世を去ります。

岩倉の葬儀は、日本初の国葬となりました。

 

[関連記事:日本の近代化に大きく貢献!岩倉具視使節団についてはこちら] [関連記事:襲った者は全員死刑!岩倉具視暗殺未遂についてはこちら]

 

岩倉具視にまつわるエピソードや伝説

VS木戸孝允 ちょんまげ事件

散切り頭を叩いて見れば文明開化の音がする

この唄を、一度は聞いたことがありませんか?

明治時代における文明開化を象徴する言葉であり、”ちょんまげ”を切ることを推奨した唄です。

では、なぜちょんまげ(髷)を切ることが良いこととされたのでしょうか。

髷は外国人から見ると異様なものであり、文明が遅れていることの象徴と見なされていたからです。

そんな野蛮な髪形をしている国と、欧米は対等に接してくれるでしょうか。

そう心配していたのは木戸孝允でした。

実はこの唄を新聞に掲載したのは、木戸だったそうです。

そのため、木戸自身もいち早く髷を切りました。

明治天皇にも同様に切ってもらおうとしましたが、それに強く反対したのが岩倉具視でした。

岩倉本人も、もちろん髷は切っていませんでした。

そんな中、岩倉は遣欧使節団の大使として、欧米へ行くことになりました。

サンフランシスコに着くと、岩倉はアメリカ人から大人気!

いい気分になった岩倉ですが、息子から衝撃的な事実を告げられます。

ちょんまげが、馬鹿にされているみたいだと・・・。

それをきっかけに、岩倉は断髪したそうです。

それにしても、木戸孝允はやり手ですね。

 

[関連記事: 木戸孝允とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】]

岩倉たちはヨーロッパの地を踏んだ最初の日本人?

続いても岩倉が欧米を歴訪している時の、何とも残念なお話です。

日本はずっと鎖国をしていましたから、それ以前に日本人がヨーロッパを訪れるというようなことは普通でしたら考えられません。

当然、岩倉具視たち使節団も、自分たちこそがヨーロッパを初めて訪れた日本人だと自負していたそうです。

しかし、なんと300年も前に日本から使節が送られていたことを発見し、驚愕しました。

それはまだ戦国時代、キリシタン大名らによって送られた天正遣欧(てんしょうけんおう)使節として送られた4人の少年たちでした。

江戸幕府は長い間キリスト教を禁じていたわけですから、その存在が忘れ去られていても無理はありません。

ですが、自分たちが初めてだと思って喜んだのに、実は違うと知ってションボリするおじさんたちの姿が目に浮かびます。

 

きょうのまとめ

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

岩倉具視とは?

① 下級の公家から幕末・明治を代表する政治家になった

② ちょんまげで木戸孝允と対立、恥をかかされた

③ 自分たちが日本人で初めてヨーロッパに行ったと勘違いして、ガッカリした

その他の記事についても岩倉具視にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞ御覧ください。

 

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