織田信長に怖れられ、上杉謙信の好敵手だった
戦国武将・武田信玄。
「風林火山」の旗印も勇ましい人気の武将・信玄がどんな人物だったのか見ていきましょう。
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武田信玄はどんな人?
- 出身地:甲斐国(現在の山梨県)
- 生年月日:1521年
- 死亡年月日:1573年4月12日(享年53歳)
- 「風林火山」の旗印の下最強の軍と知略で多くの武将を震撼させ、「甲斐の虎」と恐れられたが、無念にも病没した
武田信玄年表
西暦(年齢)
1521年(1歳)甲斐国守護・武田信虎の嫡男として誕生
1536年(16歳)元服して晴信と名乗る
1541年(21歳)父・信虎を駿河国へ追放し、家督を継ぐ
1547年(27歳)分国法「甲州法度之次第」を定める
1550年(30歳)信濃国中部を制圧。村上義清の砥石城を攻めるが大敗
1553年(33歳)信濃国東部を制圧する。第一次川中島の戦い
1559年(39歳)出家。名前を「徳栄軒信玄」と改める
1561年(41歳)第四次川中島の戦い
1567年(47歳)義信事件(嫡男・義信と家臣・飯富虎昌による謀反)が起きる
1568年(48歳)駿河を平定
1572年(52歳)三方ヶ原の戦いで徳川家康と織田信長連合軍に勝利する
1573年(53歳)三河攻めを断念し甲斐への帰国道中にて病死
武田信玄の生涯
甲斐国に地盤を持つ武田氏は、清和源氏を祖に持つ甲斐源氏の嫡流一族です。
信玄は、甲斐武田氏という名門一族出身でした。
信玄誕生から
武田家の第18代当主・武田信虎の嫡男として誕生。
幼名は太郎で、のち晴信と名乗ります。
「信玄」は出家号ですが、この記事では名を武田信玄として統一します。
1541年に「甲斐の暴れ獅子」と呼ばれた父・信虎を追放して第19代武田家当主となりました。
追放の理由は、
・信虎本人の粗暴な振る舞いがあったこと
などといわれています。
しかし、弟・信繁は常に兄である信玄を立て、兄弟仲は悪くなかったようです。
相続後は、1550年9月の村上義清の支城・砥石城で「砥石崩れ」と言われる大敗を喫したこともありましたが、
・信濃侵攻
・後北条氏との和睦
などを成功させ、北信地方を除く信濃をほぼ平定。
のちには、大敗した砥石城も武田二十四将の一人・真田幸隆(真田幸村の祖父)が落城させています。
川中島の戦い
1553年、武田氏の信濃における勢力が拡大すると、北信地方の豪族や信玄から逃げてきた村上義清らの要請で、越後国主の上杉謙信(当時は長尾景虎)が信濃出兵をしました。
こうして「甲斐の虎」と「越後の龍」の長い対決「川中島の戦い」が始まります。
1564年までの約12年間で第1次から第5次まで5回の対決をした武田信玄と上杉謙信。
ほとんどは睨み合いに終わり、1561年の第4次合戦が唯一の大規模な合戦となりました。
有名な信玄と謙信の一騎打ちはこの合戦の時にあったと伝わっています(異説あり)。
戦闘では
信玄の実弟・副将:武田信繁
重臣:室角虎定
足軽大将:山本勘助
が亡くなるという大きな代償を払った合戦でもありました。
この戦いにより武田信玄と上杉謙信は終生のライバルとなったのです。
終戦後、両者とも自軍の勝ちを宣言しており、実は12年も続いたこの戦いの明確な決着はついていません。
同盟戦略と信長包囲網、そして信玄の死
既に1560年に今川義元は桶狭間の戦いで信長に討たれていました。
そのため北条(相模)、今川(駿河)、武田(甲斐)の三国同盟が崩れます。
武田氏と今川氏・北条氏との関係は破綻しました。
武田氏は織田氏と結び、信長が奉じて上洛してくる足利義昭を通じて上杉氏との和睦も成立させ、今川義元の子・氏真を破って駿河国を支配しました。
1568年足利義昭を奉じて上洛した信長は、やがて義昭と対立します。
そこで義昭は「信長包囲網」を構築。
信玄は表面上では信長との友好関係を保ちながらも、
・朝倉義景
・松永久秀
・本願寺
らと共に包囲網に参加しました。
まずは、信長討伐に参加する遠征途上で信長と連合を組んでいた徳川家康と対決。
これが1572年の三方ヶ原の戦いです。
家康は何とか逃げきりましたが、たった2時間で武田氏が圧勝したという、家康が生涯忘れられない負け戦です。
信玄は、家康に援軍を送ったことを理由に信長との同盟を破棄しています。
いよいよ信長打倒を実行しようとする時、信玄の体調が悪化しました。
武田軍は突然進撃を中止し、甲斐に撤退します。
1573年4月、帰国途中の信濃で(異説あり)信玄は病死。
信玄は彼の死を3年間隠しておくことを遺言したと言われます。
享年53。
信玄の死で助かったのは、彼を最も恐れていたという織田信長でしょう。
武田信玄の領国経営と戦略
生涯で70戦以上戦い数度しか負けていない武田信玄は、戦国武将の中でも指折りの戦上手でした。
しかし、信玄のすごさは戦以外にも発揮され、領民や家臣に慕われていたと考えられます。
「甲州法度之次第」(こうしゅうはっとのしだい)
1547年に定められ、最終的には全部で57箇条となった領国を治めるための分国法です。
内容は、
・下巻:論語などの中国古典から引用された日常行為についての道徳的な家訓集
となっています。
最も有名な条項は、「喧嘩両成敗」。
今でもよく耳にする言葉ですね。
信玄は若いうちから法整備に積極的でした。
領地整備
「信玄堤」をご存知ですか?
信玄が領国の氾濫しやすい河川をコントロールするために作った堤防のことです。
武田氏以降のものも含め、山梨県内各地に今も残っています。
信玄は河川の流れを変えて土地を開墾するなど、新田開発や治水事業にも力を入れました。
合議制と実力評価で家臣登用
信玄は独断による決定ではなく、家臣たちとの「合議制」で会議を運営しました。
重大決定に多くの者を参加させることは、機密保持の観点から危険でしたが、信玄は家臣たちとの信頼関係に自信があったのでしょう。
家臣たちとしては非常にやりがいのある職場だったと考えられます。
また信玄は、実力主義で家臣を取り立てました。
決して豊かな国ではなかった甲斐国を本拠にしたからこそ、兵力を増強させ、領地と勢力を拡大する必要があったのです。
優れた者を身分に関係なく採用して重要ポストに就けました。
素性のよくわからなかった山本勘助(武田の名軍師)を厚遇したのがその良い例です。
功績次第で次々と報償を与えたので、家臣たちは俄然戦いに燃え、武田軍団がさらに強く進化しました。
武田信玄の墓所
武田信玄の墓所は全国各地にあり、どれが本物かはわかりません。
その理由は、
・信玄の遺言で3年間は彼の死が隠され、埋葬地を秘密にしたこと
によります。
あまりに多い信玄の墓所から2ヶ所ご紹介します。
火葬塚と呼ばれる信玄墓所
甲府市内の住宅街にある静かな墓所です。
信玄の遺体を火葬した場所と言われ、火葬塚とも呼ばれています。
信玄の死後、葬儀が行われるまでの3年間埋葬され、のちに恵林寺(山梨県甲州市)にて葬礼がおこなわれたということです。
地元の人々に大切にされている墓所です。
<武田信玄公の墓:山梨県甲府市岩窪町246>
恵林寺の信玄墓所
恵林寺は武田氏の菩提寺として知られる臨済宗妙心寺派の寺です。
1573年に亡くなった武田信玄は、遺言通り3年間その死を秘密にされました。
そのあと、1576年に武田勝頼によって父親・信玄の盛大な葬儀が行われたのが当寺院です。
以来、命日の4月12日には毎年供養が行われており、武田家家臣の墓約70基も信玄の墓所後陣に並んでいます。
<武田信玄公墓所 乾徳山 恵林寺:山梨県甲州市塩山小屋敷2280>
きょうのまとめ
簡単なまとめ
武田信玄とは?
① 甲斐源氏嫡流のエリート武将
② 多くの同盟締結と破棄を繰り返し、負けない戦で勢力と領地を拡大した名将
③上杉謙信のライバルとなり、信長を怖れさせ、そして家康に冷や汗をかかせた甲斐の虎
④ 合議制の採用や実力主義による人材登用などの合理的精神のある武田家当主
でした。
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