武田信玄とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

室町幕府が完全に失墜し、権力は守護大名に移ります。

戦国時代と呼ばれるこの15世紀末~16世紀末にかけて、

日本各地で戦乱が頻発します。

混乱を極める時期ではありますが、一方で魅力的な武将を輩出しそれ以後の時代に大きな影響を与えることにもなるのです。

そんな中でも、大きな存在感を放っている

武田信玄

好敵手、上杉謙信との戦いと共に語られることも多く、

人気の高さは両雄不動とも言えるでしょう。

今日はそんな武田信玄がどういう人物だったのか、まとめてみたいと思います。

 

武田信玄はどんな人?

プロフィール
武田信玄

武田信玄
出典:Wikipedia

  • 出身地:甲斐国(現在の山梨県)
  • 生年月日:1521年11月3日
  • 没年月日:1573年4月12日(享年53歳)
  • 風林火山を旗印に掲げ、信頼で築き上げた強固な騎馬軍団を武器に無類の戦上手として名を轟かせた。

 

武田信玄 年表

年表

西暦(年齢)

1521年(1歳)甲斐国に生まれる(幼名 太郎(勝千代))

1536年(16歳)元服。室町幕府第12代将軍「足利義晴」から「晴」の字を賜り「晴信」と改称する。

1541年(21歳)父・信虎を駿河へ追放。武田家第19代目として家督を相続。

1553年(33歳)信濃の有力国衆を討ち、北信を除く信濃国をほぼ平定。

同年4月 北信の国衆の要請を受けた上杉謙信が本格的に信濃出兵を開始。以後の甲越対決の端緒となる(第一次川中島の戦い)。

1555年(35歳)第二次川中島の戦い。

1557年(37歳)第三次川中島の戦い。

1560年(38歳)諏訪勝頼(後の武田勝頼)の正室として、織田信長の養女を迎え入れる。

1561年(41歳)第四次川中島の戦い。

1564年(44歳)第五次川中島の戦い。

1567年(47歳)謀反の嫌疑で嫡男義信を廃嫡。

1568年(48歳)駿河へ侵攻を開始。

1571年(51歳)徳川家康を討つべく大規模な遠江・三河侵攻を開始。

1572年(52歳)三方ヶ原にて徳川家康との決戦に大勝。

1573年(53歳)三河に侵攻。野田城を陥落。その直後から度々喀血するようになる。

同年4月初旬に甲斐へ撤退を開始。12日に三河街道上で死去する。

 

織田信長を恐れさせた戦上手

織田信長や豊臣秀吉と会見して、後に『日本史』を記すことになる、

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスはその書物の中で、

織田信長がもっとも煩わされ、常に恐れていた一人

と武田信玄のことを記しています。

織田と武田の両家は友好関係を保持し続け、最終的に関係は崩れるものの、

信玄の死によって信長との直接対決をすることはありませんでした。

信長は、信玄の何を恐れたのでしょうか。

順番にみていきましょう。

孫子の兵法

紀元前500年ごろの中国は春秋時代といわれ、いくつもの国が割拠し覇権を争っていました。

そこに1人の天才兵略家、孫武が現れ戦い方を革命的に変えていきます。

その孫武が書いたとされる『孫子』を武田信玄は学び、

自らの戦い方にも取り入れていくことになるのです。

有名なところでは風林火山。

武田軍が旗指物に記したとされる

疾如、徐如、侵掠如、不動如

という言葉の略なのですが、これは元々、孫子の中にある軍の進退に関する記述です。

千変万化する戦場では同じ軍隊を扱ったとしても、その用兵の仕方で結果は雲泥の差となります。

中国大陸で編み出された、用兵の極意を研究し、

自軍に生かしていったことが、武田信玄の強さの大きな要素であったことは間違いないでしょう。

 

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兵法の実践

兵法を研究しただけでは、机上の空論です。

実際の戦場では、刻一刻と状況は変わっていきます。

兵法をいかに活かしていくのかが勝敗を分ける最大のポイントとなります。

そういう意味でも武田信玄にとって好敵手、上杉謙信の存在は大きかったでしょう。

仏教における武神、毘沙門天びしゃもんてんの生まれ変わりと称されるほどの戦上手だった上杉謙信。

その上杉謙信と対峙した数度にわたる川中島の戦いの中で、

武田信玄は孫子の兵法を自分の血肉と化していったことが想像されます。

武田信玄が外交方針を転換して、駿河に攻め込んだとき駿河(今川)と相模(北条)から塩の交易を留められてしまいます。

しかし、上杉謙信は困窮する武田の領民に対してそうすることなく塩を送り続けたそうです。

また、信玄の死を知らされたとき、謙信はその死を惜しんだといいます。

こんなエピソードからも、武田信玄と上杉謙信はお互いの存在を認め合っていたことをうかがい知ることができ、

両者の戦場においての強さも伝わってくるのではないでしょうか。

 

関連記事 >>>> 「武田信玄と上杉謙信「敵に塩を送る」逸話は本当?

信頼で築き上げた君臣関係

死と隣り合わせの戦場において最も重要なものは何でしょう?

兵力や武器の強さ。

共に戦う仲間が信頼できるか。

武田信玄は、この信頼による結束を重視した武将であることはよく知られています。

武田信玄
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり

という言葉は、

「信頼によって結びついた人は、強固に作り上げられた城に匹敵する」

という信玄の思想を表したものです。

実際に信玄は、城という城は作ることなく、山梨県甲府市に躑躅ヶ崎館つつじがさきやかたと呼ばれ居館を構えただけでした。

このように信頼関係で結ばれた軍団が戦場に立った時、

予想以上の働きをしたことは、想像に難くありません。

最終的に臣下の謀反によって生涯を閉じてしまう織田信長は、

自分にはないこのような能力に、武田信玄の強さを感じていたのではないでしょうか。

 

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内政にも尽力した信玄

信虎、信玄、勝頼の三代が居住した躑躅ヶ崎館の跡地は、

現在、武田神社として整備され、武田信玄が御祭神として祀られています。

これは、領民に慕われていた証とも言えます。

その背景には、連戦連勝を重ねる戦上手だったというだけでなく、

治水工事を始め、農業や商業の振興など、領国の経営にも尽力した姿があったからです。

国が功績として認めた信玄の治水

甲州の中心にあたる甲府盆地は、複数の川が合流しているため、

河川の氾濫による水田の被害に悩まされていました。

武田信玄はさまざまな工夫を凝らし、河川の氾濫を治め治水に成功します。

これは同時に米が増産されることも意味し、国を富ませることにもつながっていくのです。

信玄堤と呼ばれる、この治水灌漑かんがい工法は、後世に大きな影響を与えるものでした。

1915年、大正天皇は武田信玄の治水などの貢献を認め、

「従三位を贈る」ことを決定することからもその偉業をうかがい知ることができます。

そして従三位を受け取るに相応しい、正統な武田信玄の子孫は誰かが調査されることになり、

最終的に、信玄の正室・三条の方との間の次男、海野信親の子孫が正統であると認められることになるのです。

 

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一生懸命の大切さを説き実行した信玄

信玄が成功させた治水という事業は、多くの困難が伴います。

特に他国としのぎを削っている戦国の世においては、より難しいものであったことは想像に難くありません。

このような難事業を成功させるには、人心をいかに掌握出来ているかどうかが鍵を握るものです。

信玄は、一生懸命の大切さを説き、自らも律してそれを実行したと言われています。

人々は、その場限りの政治的ポーズは見破るものです。

信頼による強固な君臣関係を築き、領民に慕われた武田信玄は日々の積み重ねによって、本質的な国造りに成功したともいえるでしょう。

 

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きょうのまとめ

他の戦国大名に一目置かれ、恐れられた武田信玄の強さの秘訣と魅力をまとめてみると、

次のようになるのではないでしょうか。

① 中国の天才兵略家・孫武の書『孫子』を学んだ

② 学んだ兵法を好敵手・上杉謙信との戦いの中で実践した

③ 信頼関係で結ばれた君臣関係を築き戦略の効果を倍加させた

④ 内政にも尽力し、特に治水を成功させ国を富ませた

⑤ 一生懸命に取り組む大切さを自らも実践し、人心を掌握した

武田信玄の強さの秘訣は、「人」を第一とし、攻守のバランスを保ちながら、

機を見て敏に動くというところにあったとのではないでしょうか。

当時としては高齢となる53歳という年齢に阻まれて、

天下統一への名乗りを上げることなく、道半ばで倒れてしまったのは非常に惜しい気がします。

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