古代の朝廷と戦った蝦夷のアテルイ。
どうしても坂上田村麻呂に負けた人というイメージを持ちがちです。
ですが実は、朝廷の大軍を少数で鮮やかに破ったとんでもない武将だったのです。
そこで今回は、アテルイの作戦が大成功した巣伏の戦いをご紹介していきます。
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紀古佐美率いる大軍を少数でボコボコにした「巣伏の戦い」
資料にアテルイの名前が出てくるのは、征東大使(征夷大将軍と同じ意味)・紀古佐美との戦いです。
紀古佐美率いる朝廷軍は789年3月、衣川に陣営を張りました。
朝廷軍をおびき寄せる作戦
ですが、なかなか動かなかったことから、紀古佐美は桓武天皇からのお叱りを受けることになります。
これをきっかけに全軍が攻撃を開始し、そのうち4000の中・後軍が北上川を渡って北上。
すると蝦夷軍は、わずか300という兵でこれに対抗しました。
どう考えても、朝廷軍有利です。
しかし、これは中・後軍をおびき寄せる作戦でした。
当時としては考えられない大損害
彼らが前軍との合流地点である巣伏村(現在の岩手県奥州市水沢区)に着くと、およそ800人の蝦夷軍精鋭部隊が襲いかかります。
さらに後方には蝦夷軍およそ400人が現れ、中・後軍は挟み撃ちに遭いました。
その結果、朝廷軍は
- 戦死者25名
- 矢に当たった者245名
- 溺死者1036名
- 裸身で泳いできた者1257名
という損害を出したのです。
最後の裸で泳いできた……はちょっと笑ってしまいますが、
古代の戦いで死者が千人を越えるというのは尋常ではありません。
紀古佐美軍の大敗、裏を返せばアテルイ軍の大勝利だったわけです。
紀古佐美まさかの虚偽報告
実はこの戦いには続きがあります。
古代史で稀に見る大敗を喫した紀古佐美は、なんと中央政府に勝利報告をしていたのです。
戦いの最中、紀古佐美は軍の撤収を申し出ていました。
しかしこれに対して、桓武天皇は激しく叱責。
紀古佐美に対して、「お前は武将失格!無能!」と言ってきたのです。
桓武天皇の怒りはただ事でないと感じたのでしょうか、
紀古佐美は「蝦夷の地を平定、勝ちました」と嘘の報告をしたのです。
もちろん嘘はバレて、さらに激しい叱責を受けましたとさ。
きょうのまとめ
今回は、アテルイが朝廷軍を大敗させた「巣伏の戦い」について、簡単にご紹介しました。
② それにより朝廷軍には千人以上の死者が出た
③ 紀古佐美は朝廷に嘘の勝利報告を行っていた
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より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
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この戦いは、福島県と宮城県の境で起きたものだと考えられます。
胆澤の逆賊であれば胆澤公阿弖流為、胆澤公母礼と記されると思います。
夷大墓公阿弖流為、磐具公母礼の名から刈田郡南端部と伊具を根拠地とした逆賊と推測されます。夷大墓は夷(渡来人)の墓所付近の人物と考えられます。国見パーキング付近に馬ノ墓がります。馬は駒であり、高麗ノ墓と考えられます。磐具は伊具とかんがえられますね。阿武隈川は刈田と伊具に挟まれた峡谷部を流れています。そこの東岸部で官軍は敗績したのです。八世紀初頭の陸奥国域と蝦夷地の境界部にあたります。
多賀柵が後に多賀城となった事はがご存知だと思います。ところで多賀柵は何処にあったのでしょう。続紀737年の条によれば、雄勝村から多賀柵へ新道が開かれました。行程は百六十里(約80Km)です。現在多賀城跡と称される所では行程が合致しません。他の行程を地形図上で確かめると全て合致します。多賀城の位置だけ合致しません。つまり、多賀柵(多賀城)雄勝から百六十里の所に在ったはずですね。現在多賀城跡と称される場所は江戸時代に比定された所です。多賀城碑が出土したことで多賀城跡とされましたが、碑文は続紀と全く合致せず偽物だと思います。多賀柵は賀美郡に在ったにもかかわらず、賀美郡以外の所から多賀城碑が出土するのは奇妙なことです。同時代の作られた記念碑はない。