中国後漢時代末期~三国時代にかけて活躍した武将、
劉備。
蜀漢の初代皇帝にもなった彼は、『三国志』を語るうえで欠かせない人物の一人です。
劉備とは一体、どのような人物だったのでしょうか。
今回は、その生涯について功績やエピソードと共にご紹介していきます。
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劉備はどんな人?
- 出身地:中国 涿郡涿県楼桑里(現、河北省保定市涿州市)
- 生年月日:161年
- 死亡年月日:223年6月10日(享年62歳)
- 後漢時代末期~三国時代の武将。「蜀」の初代皇帝。
劉備 年表
西暦(年齢)
161年(1歳)涿郡涿県楼桑里で誕生する。
184年(23歳)「黄巾の乱」が勃発。関羽、張飛らと共に義勇軍を結成。鎮圧して功績を挙げる。
191年(30歳)袁紹軍との戦いで功績を挙げた後、平原県の令、相に推挙され就任。
194年(33歳)豫州刺史に就任。徐州を所有する。
200年(39歳)「三顧の礼」によって諸葛亮を引き入れる。
208年(47歳)「赤壁の戦い」に勝利。
209年(48歳)天下三分の計により蜀の地を獲得。
221年(60歳)後漢の滅亡後に蜀漢を建国。初代皇帝に君臨する。「夷陵の戦い」を敢行。
223年(62歳)6月10日、白帝城にて死去。
劉備の生涯
ここからは早速、劉備の生涯についてその功績と共に見ていきましょう。
怒涛の出世
劉備の名が歴史の表舞台に最初に登場したのは、西暦184年。
23歳を迎えた年でした。
後漢時代末期の当時、貧富の差や荒れた情勢によって中国大陸は混乱のただ中にありました。
そんな中、太平道(後漢末の華北一帯で民衆に信仰された道教の一派)信者たちによる黄巾の乱が勃発。
劉備は義勇軍を結成してこの鎮圧に乗り出したのでした。
そのときに彼が義兄弟の契りを交わし、以降共に戦乱の世を駆け抜けることになったのが関羽と張飛です。
劉備率いる義勇軍はこの乱で見事に軍功を上げ、劉備は中山国安熹県の尉(王朝時代における官職のひとつ)に任命されました。
その後も劉備は関羽、張飛らと共に次々と功績を遺し、着々と昇進を重ねて出世していきました。
194年、遂には徐州を所有するまでになった劉備は、どんな身分の人も差別せず貧困者には経済的支援をするなど、人々からとても慕われるリーダーになっていました。
曹操と劉備
徐州を統治するまでに出世した劉備。
しかしここから事態は思わぬ方向へ発展していきます。
中国北部で権威をふるっていた曹操に敗北した呂布が、劉備のもとに逃げてきてからのこと。
劉備は彼を迎え入れ別の戦に身を投じている隙に、妻子を人質にされてしまったのです。
その後なんとか和解して小沛の地へと移ることになった劉備でしたが、そこでも呂布の攻撃に遭い、彼はさらなる敗走を余儀なくされます。
そのときに劉備が頼ったのが、曹操でした。
当時の曹操は劉備を高く評価していたこともあり、劉備は彼のおかげで再び小沛の地に戻ることができたのです。
しかしその後、曹操が中国北部を実質的に制覇し、その勢力を南下させてきたことで両者は敵対することになりました。
劉備は諸葛亮を配下に入れ、彼の案により「天下三分の計」を実行すべく、曹操と戦うことになります。
これが後に『三国志』でも有名な赤壁の戦いへと繋がっていくのでした。
栄枯盛衰
赤壁の戦いに見事勝利し、荊州の支配権を握って独立を果たした劉備。
時代は三国時代に突入します。
221年、劉備が60歳を迎える頃には群臣たちに推挙され、遂には蜀漢を建国。
初代皇帝の座に君臨しました。
しかし、これを頂点にして劉備の栄華は衰退へと向かっていきます。
皇帝に即位した同じ年、彼は呉国の裏切りに遭って腹心の部下関羽を、そして同じく腹心の部下張飛は自国の部下によって殺されてしまうのです。
赤壁の戦いで共に戦った呉が、領有権を巡る争いから劉備の治める蜀と険悪な仲に。
すると曹操の治める魏と組んで魏呉連合軍を結成。
関羽はこの連合軍によって殺され、張飛を殺した裏切り者は呉に逃亡したのです。
劉備はこれに激怒し、以後は義兄弟たちの弔い合戦に身を投じていくのでした。
この、呉に対する復讐戦を夷陵の戦いと言います。
しかし怒りに我を忘れ、重臣たちの猛反対を押し切って挑んだこの争いで劉備は大敗を喫します。
当初は75万もの大軍勢で呉軍を押していた蜀軍は、呉の計略にはまり大きな痛手を負ったのです。
なんとか窮地を脱した劉備は白帝城に逃げた後、永安宮を建設。
晩年は後悔や病気にさいなまれながら、223年、62歳のときにそこで生涯を閉じました。
劉備にまつわるエピソードや伝説
ここでは劉備の人物像にもう少し迫るべく、彼にまつわる伝説的エピソードをご紹介していきます。
若き日の劉備
西暦161年、涿県(現在の河北省保定市涿州市)の楼桑里と呼ばれる村で誕生した劉備。
名前は備ですが、字の玄徳をつけて劉備玄徳とも呼ばれています。
父親を幼くして亡くし、少年時代の劉備は母と二人貧しい生活を送っていました。
しかし実は彼の父親は、前漢時代の景帝の息子の末裔に当たる人物であり、かつては皇帝の護衛や官吏などを務めた有能な人物でした。
そんな父親の血を引く劉備はやはり少年時代から既に一目置かれていたようで、彼の周りには自然と若者が集まり、豪商たちに金銭面での援助を受けるなど「ただ者ではない」オーラを纏っていたとされています。
しかしその人柄は極めて謙虚で口数も少なく、物静かな中に周囲の人間を惹きつけるカリスマ性を秘めていたと言えるでしょう。
「三顧の礼」
曹操との戦に向けて兵力を整える際に、諸葛亮を配下に迎え入れた劉備。
しかし後に天才軍師と呼ばれる彼を引き入れることは、一筋縄ではいきませんでした。
諸葛亮の友人である人物から彼の噂を聞きつけた劉備は、その友人に対して諸葛亮に話をつけるよう頼みます。
しかしそれに対し諸葛亮の友人は、彼が自分ごときの説得に応じるはずがないことを劉備に告げます。
そこで劉備は自ら諸葛亮の自宅に出向き、3度目の訪問にしてようやく口説き落とすことに成功したのです。
このエピソードは「三顧の礼」と呼ばれ、後世に語り継がれる有名なものとなりました。
晩年
夷陵の戦いに敗れ、失意のうちに白帝城で死去した劉備。
病床に就く中、彼は夢の中で関羽と張飛に再会します。
そこで2人が兄弟3人近いうちにまた集うことになると話していたことで、彼は自分の死期を悟りました。
そして夢から覚めた後、後の全てを諸葛亮に託し、ほどなくして息を引き取ったのです。
劉備の義兄弟たちに対する強い思いや、深いきずなを感じさせるエピソードです。
きょうのまとめ
今回は、『三国志』に登場する主要人物のひとり劉備について、その生涯を功績やエピソードと共に簡単にご紹介してきました。
いかがでしたでしょうか。
新たな学びは得られましたか。
最後に、劉備とはどのような人物だったのか簡単にまとめると
① 中国後漢時代末期~三国時代に活躍した武将。
② 三国のうちのひとつ、蜀の初代皇帝。
③ 義理人情に厚い人物として知られ多くの人に慕われた一方、その義理堅さによって最期は自滅的な道を辿った。
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