劉備玄徳の子孫に迫る!

 

劉備玄徳の子孫に迫りたかったのですが

残念ながら、

劉備玄徳の子孫についての記録は、あまり残っていません。

劉備玄徳の子孫として認識されている数少ない人物の中には、

孫の劉璿(りゅうせん)と曾孫(ひまご)の劉元(りゅうげん)がいます。

今回は劉璿と劉元、その他の劉備玄徳の子孫に関するエピソードについて紹介します。

 

子孫はいるのか?

1926年に発表された「 富陽劉氏宗譜 」

という家系をについてまとめた記録によると、

浙江省(せっこうしょう)の富陽市に劉備玄徳の子孫がいるとされています。

しかし光武帝の時代に、

劉備玄徳の子孫が蜀の宗族と誤解されてしまうことを恐れて金と改姓したため、

今でも浙江省富陽市のある村には沢山の金という姓の人が暮らしています。

その村では、殆どの人が姓を金としているそうです。

詳しい歴史的な記述が無く、様々な歴史的な混乱も合ったため、

歴史書で劉備玄徳の子孫を正しくたどることはできず、

はっきりと誰が劉備玄徳の子孫なのかは分からない状態なのです。

 

そもそも劉備は本当に漢王室の末裔なのか?

劉備は漢の景帝(けいてい)の子孫だとされています。

しかし劉備が誕生した時、彼の家はとても貧乏な状態にありました。

家は貧しい状態でしたが劉備は子供の時から

「 自分の家系は漢王室の末裔なのだ。 」

と言い聞かされて育ち、自分には天子になる資格があると考えていたそうです。

献帝(けんてい)という皇帝が劉備が本当に漢の皇帝の末裔なのかを調べるために家系を調べたことで、

劉備がしっかりとした景帝の子孫だということが分かりました。

このことから献帝は、劉備のことを自分の叔父だと認めたそうです。

 

劉備の2人の子孫

以上のことから劉備がしっかりと漢の王室の血をひいているということが分かりました。

ここからは劉備の2人の子孫について紹介します。

劉璿(りゅうせん)

劉璿は、劉備の次男劉禅の長男で、劉備の孫であり蜀の皇太子だった人物です。

彼は238年に、わずか15歳の時で蜀の皇太子の地位に就きました。

その後、鍾会(しょうかい)と姜維(きょうい)が反乱を起こしたときに、

混乱の中で殺害されたそうです。

劉璿がわずか41歳のときの出来事でした。

劉玄

劉玄は、劉備の三男である劉永(りゅうえい)の孫で、劉備の曾孫にあたる人物です。

246年に蜀漢が滅亡したときに、劉玄は身柄を洛陽へと移されました。

永喜(えいか)の乱が起こった際、彼の一族はほぼ亡くなってしまいましたが、

劉玄は何とか蜀の地に逃れることができたそうです。

その地で劉玄は、彼の大叔父である劉禅(りゅうぜん)の爵位だった安楽公の名を受け継ぎました。

劉備玄徳の子孫は今…

実は、劉備玄徳の子孫を名乗る人々が

現在の中華人民共和国四川(しせん)省の成都にいるそうです。

「 劉備玄徳の末裔(まつえい) 」と名乗り、

草履を売って暮らしているそうです。

売り文句の効果があってか、

商売の状況は悪くないということが分かりました。

 

きょうのまとめ

今回は劉備玄徳の子孫について調べてみました。

残念ながら劉備玄徳の家系については、

劉備玄徳が漢の皇帝の血を引き継いでいるなど先祖のことはきちんとたどることができても、

子孫については分からないことも多いです。

中には名前しか分からない人がいたり、

劉備玄徳の曾孫である劉玄も父親の名前すら不明だったりするほど、彼の子孫についての記録は少ないです。

劉備玄徳がとても優れた人物だったということで、

子孫について記録がわずかしか残っていないことが残念ですが、

きっと彼の末裔には才能があふれた人物が多くいたと想像することができます。

劉備玄徳の実の息子である

劉禅(りゅうぜん)、劉永(りゅうえい)、劉理(りゅうり)の三人については

下記の記事で紹介しているので、そちらも是非参考にしてください。

 

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