関羽雲長とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

蜀の創始者である劉備(りゅうび)の義兄弟として、生涯に渡って忠義を尽くしたエピソードが有名な

関羽雲長(かんううんちょう)。

さらにとても屈強な武将であったことから、その男らしさに憧れる人も多い人物です。

その知名度からなんとなく、優れた武将だということはわかりますが、関羽は具体的にはどんな人だったのでしょうか。

史実に詳細に触れると、どうして彼が忠義の人だといわれているのか、またどのぐらい強かったのかも明らかになってきますよ!

彼が生きた生涯から、その人物像に迫っていきます。

 

関羽雲長はどんな人?

プロフィール
関羽雲長

出典:Wikipedia

  • 出身地:河東郡解県(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)
  • 生年月日:不明
  • 死亡年月日:220年1月
  • 蜀の創始者である劉備の義兄弟として、建国に貢献した武将。兵一万人分の強さを誇る、義に生きた男。

 

関羽雲長 年表

年表

西暦

184年 河東郡(かとうぐん)の生まれであるが、追われる身となり涿群(たくぐん)へと移住。黄巾の乱が起こったのをきっかけに劉備、張飛(ちょうひ)と出会い義兄弟の契りを交わす。

198年 このとき劉備の一行は曹操(そうそう)の配下にあった。呂布(りょふ)との戦いで健闘した関羽は張飛と共に中郎将に任命される。

199年 劉備が曹操を裏切り、徐州を占拠。関羽はそのうちの下邳(かひ)を任される。

200年 徐州に攻め込んできた曹操から劉備が逃走。関羽は捕虜となるが厚遇される。関羽はその恩を曹操に返した後、劉備の元へ帰っている。

209年 三国がそれぞれに陣取る荊州(けいしゅう)のうち、曹操と隣接する長江の北側の守備を任される。

217年 荊州の領土を広げようと考えた孫権が、自分の息子と関羽の娘との政略結婚を申し込んでくるが、これを断る。

218年 樊城(はんじょう)の戦いで曹操軍を追い詰める。

219年 同盟を結んでいた孫権軍に裏切られ、曹操軍との挟み撃ちに遭う。結果追い詰められることになり、処刑される。

 

劉備への絶対的な忠義

黄巾の乱で劉備、張飛と出会う

劉備張飛関羽の三人が出会ったのは、184年に起こった黄巾の乱がきっかけでした。

劉備が黄巾の乱をしずめるため、義勇軍を結成しようと呼びかけたのです。

このとき関羽は生まれ故郷の河東郡を離れ、涿群に住居を移していたことで、この義勇軍に参加できたといえます。

そうなると彼が故郷を追われる身となり、涿群にやって来たことにも運命的なものを感じさせられますね。

集まった兵の中でも、特に優れていた張飛と関羽を劉備は優遇しました。

なんでも寝食を共にし、二人を常に側に置いたといいます。

張飛と関羽はその期待に応えるかのごとく、側近として劉備のことを厳重に護衛。

戦場では率先して戦い、黄巾の乱でもいちじるしく活躍しました。

そして二人はここから生涯を劉備と共にすることになります。

曹操から厚遇を受けてもなびかなかった

関羽のエピソードの中でも、特に有名なのが曹操の捕虜にされたときの彼の振る舞いです。

曹操は関羽の実力を認めており、自分の元に長く置いておきたいと考え、彼を厚遇しました。

曹操は地位や金品を惜しげもなく関羽に贈っていたのですが、それでも関羽の劉備への忠義が揺らぐことはありません。

しかし劉備への忠義を誓っていようとも、関羽が人を選ばず律儀な人物であることにも変わりはないのです。

劉備の元へ帰りたいと思いながらも、それは厚遇してくれた曹操へちゃんと恩返しした後だと彼は決めていました。

そしてその言葉の通り、200年に起きた官渡の戦いでは、白馬にて敵将の顔良の首を取る功績を残します。

関羽はその後すぐに曹操の元を離れ、敵軍である袁紹(えんしょう)の軍に加わろうとしました(劉備は袁紹と手を組んでいた)。

このとき関羽を追おうとした部下を曹操は引き止めます。

どれだけ地位や金品を贈っても劉備への忠義が揺らがない様子と、自分への恩もきっちりと返したことに、曹操も敬意を表していたのです。

関羽ほどの武将が敵軍に加わるとなれば、自身が不利になってしまうことは目に見えています。

忠義を貫いた関羽も素晴らしいですが、それに対する曹操の振る舞いもまた、戦乱の世においては、なかなか真似できるものではありません。

 

兵一万人に匹敵するほどの強さ

樊城の戦いで大暴れ

関羽の戦の強さを一番に物語るのは、218年から繰り広げられた樊城の戦いでの活躍ぶりでしょう。

関羽はこのとき曹操の軍と隣り合う荊州を任され、この戦いで曹操を大いに苦しめました。

曹操領の都となっていた樊城を任されていたのは、曹操の息子でもある曹仁(そうじん)です。

樊城に攻め込んできた関羽に対し、曹仁だけでは太刀打ちできないと考えた曹操は于禁(うきん)の軍を援軍として送り込みます。

于禁は七軍にも渡る大軍を率いて曹仁の援護に向かいますが、このとき大雨による大洪水が起き、軍のほとんどは水没してしまいました。

それに対して船団を用いて戦った関羽が有利を取ります。

これによって樊城を完全に包囲した関羽は、追い打ちをかけるように同じく曹操領だった襄陽(じょうよう)をも包囲。

挙句の果てには、曹操領にはびこっていた賊たちに相応の地位を与え、好き勝手に暴れさせることでさらに曹操軍を追い込んでいきます。

これによって曹操は完全に逃げ腰になってしまい、樊城から都を別の場所へ移すことすら考えていました。

天候を味方に付け、さらにその場に居た賊たちまで利用してしまう。

関羽本人も強かったことに間違いはありませんが、それ以上に戦況を有利に運ぶ機転もあって「兵一万人にも匹敵する」と評価されていたのでしょうね。

プライドの高さが仇となり、追い詰められる

関羽は戦にも強く、任された領土の統治にも長けていました。

しかし欠点として、他者からの評価だけではなく、本人も自分の実力に自信を持ちすぎる部分があったのです。

それ故に自分と同格以上だと評価される人物が味方に現れても、「自分の方が優れている」といって認めようとしませんでした。

この性格が仇となって、自分が攻める間領地を任せていた麋芳(びほう)、士仁(しじん)に裏切られてしまいます。

関羽に追い詰められた曹操は、同じく荊州に陣取っていた孫権と秘密裏に手を結び、関羽の軍を背後から攻撃させようとしました。

このとき残って領土を守っていた麋芳と士仁は、関羽を嫌っていたため、あろうことか孫権に手を貸してしまうのです。

これによって自陣の留守を荒らされることになった関羽は、部下や妻子たちを捕虜にされてしまい、絶体絶命のピンチに陥りました。

関羽自身は何度も逃亡を計ろうとしましたが、最後は麦城(ばくじょう)にて追い詰められ、息子の関平と共に処刑されています。

関羽が処刑されると曹操は敬意を表し、その首を洛陽の地に埋葬しました。

同じように孫権も、当陽の地に関羽の胴体を埋葬しています。

曹操は一時関羽を部下としていましたし、孫権も自分の子を関羽の娘と結婚させようとするなど、その統治能力を評価していました。

処刑こそしても、やはり二人とも賞賛に値する相手だと買っていたのでしょう。

関羽が迎えた悲劇の最後についても、詳しく記事にしています。

こちらも合わせて覗いてみてください。

関連記事 >>>> 「関羽雲長はどんな最後を迎えた?自尊心の強さが災いに…」

 

きょうのまとめ

関羽雲長は最後こそ足をすくわれるような追い詰められ方をしてしまいましたが、生涯を通じて見てみると三国時代でも屈指の武将であることは間違いないといえます。

誰よりも強く、絶対に裏切らない…関羽を配下に持っていた劉備も、さぞかし心強かったことでしょう。

最後に記事中で触れた関羽の人物像を簡単にまとめてみます。

① 黄巾の乱以来、生涯に渡って劉備の片腕として活躍した

② その強さを一番物語るのは、樊城の戦いで曹操を追い詰めたエピソード

③ 仲間からしばしば嫌われていたため、最後は裏切られて追い詰められてしまう

以上が関羽を巡る主なエピソードでしょう。

その活躍も実力があったが故ですが、悲劇の最後を遂げてしまったのもまた然りといったところですね。

 

関連記事 >>>> 「関羽雲長の子孫はやっぱり強かった?名家の行く末に迫る!」

関連記事 >>>> 「関羽雲長はとてもクセの強い性格だった!義理堅さとプライドが命」

関連記事 >>>> 「関羽雲長の身長は2mを超えていた?」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

3 + 19 =