鎌倉時代初期、将軍・源頼朝の右腕となり、幕府の基盤を担った文官・
大江広元。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の配役が栗原英雄さんに決まり、日に日に注目度も高まっています。
そして…
広元が幕府において余りある功績を残したことはもちろんのこと、その子孫にも興味深い人物がいたりします。
誰しもが知るあの戦国武将・毛利元就と関係しているとか…?
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大江広元の子孫・家系図
以下が大江広元の家系図です。
図のように、広元には計6人の息子がいます。
幕府の核を担った広元に与えられた所領は膨大なもの。
これらは息子たちに相続されていきました。
僧侶となった六男・尊俊以外の5人は全員、それぞれ領地を与えられ、新しい氏族を起こしているんですよ。
長男・親広とその子孫
長男・親広とはどんな人物?
長男の親広は二代将軍・源頼家の代から幕府へ出仕。
広元の功績もあって厚遇されており、寺社奉行や政所別当などの職を務めました。
執権・北条義時の娘婿になるなど、有力御家人の北条氏からも信用を得ていた様子。
しかし、1221年に勃発した承久の乱では後鳥羽上皇に従い、幕府と対立することになってしまいます。
結果、幕府に軍配が上がり、親広はその立場を追われることに。
以降は広元から与えられていた出羽国寒河江荘(現・山形県寒河江市)にて、隠れるように余生を過ごしたといいます。
子孫は上田氏・寒河江氏に
親広の嫡男・佐房は承久の乱で幕府方として戦い、戦功として信濃国上田荘(現・長野県上田市)を賜りました。
以降、その子孫は上田氏を名乗るようになります。
一方、親広が暮らした寒河江荘は親広の次男の高元に相続され、その子孫が寒河江氏を名乗るようになりました。
このうち、上田氏は鎌倉末期に没落してしまいましたが、寒河江氏は戦国時代まで約400年に渡って繁栄。
戦国末期には、のちの出羽山形藩主・最上義光と覇権を争いました。
次男・時広とその子孫
次男・時広とはどんな人物?
次男の時広は、承久の乱で兄親広が失脚したことに伴って家督相続者となり、幕府の中枢を担いました。
最高機関である評定衆に名を連ねたほか、備後国(現・広島県東部)の守護職を任されています。
父広元からは出羽国長井荘(現・山形県長井市)を所領として与えられ、この地に米沢城を築きました。
子孫は出羽長井氏・備後長井氏・安芸福原氏に
長井荘を治めるようになった時広は長井氏を名乗り、こののち、長男の泰秀に家督を相続。
これが出羽長井氏になります。
以後、長井氏は長きに渡ってこの地の地頭を務めましたが、南北朝時代になり、東北地方を牛耳っていた伊達氏の侵攻によって衰退してしまいます。
また、備後国守護の座は次男・泰重が引き継ぎ、これが備後長井氏となりました。
備後長井氏は1333年、建武の新政で守護職を失いますが、室町時代が訪れると、将軍家から領主として認められるように。
このとき、安芸国福原村(現・広島県安芸高田市)に鈴尾城を築いたことから、安芸福原氏を名乗るようになります。
以降、中国地方は広元の四男・季光が起こした毛利氏が治めるようになっていき、福原氏はその重臣として隆盛を極めていきました。
三男・政広とその子孫
三男・政広とはどんな人物?
三男の政広の所領は広元から与えられたものではなく、少し特殊な経緯で相続されました。
1184年、鎌倉幕府vs源義仲の「宇治川の戦い」が勃発。
結果、義仲は幕府軍に討伐されます。
このとき、上野国那波郡(現・群馬県伊勢崎市)の領主・那波弘澄が戦死しており、相続者がいなくなってしまったのです。
そこで、政広が弘澄の養子の形をとり、那波郡を相続。
以降、那波宗元と名を改めています。
那波氏の動向
鎌倉幕府における那波氏は、領地の訴訟問題を扱う引付衆に。
室町時代には鎌倉公方の重臣となり、関東管領・足利持氏らを支えました。
このあと戦国時代に入ると、関東地方は
・武田氏
・小田原北条氏
がしのぎを削る激戦区となっていきます。
混乱の最中、那波氏は主君をさまざまに変えつつ衰退。
1591年、豊臣政権下で滅亡を迎えました。
四男・季光とその子孫
四男・季光とはどんな人物?
四男の季光は、広元から相模国毛利荘(現・神奈川県厚木市)を相続。
その地名から、毛利氏を名乗るようになります。
また、季光は承久の乱で多くの武功を挙げ、安芸国吉田荘の地頭職に。
この経緯から執権・北条氏からも信任を得ており、評定衆にも名を連ねています。
しかし、有力御家人である北条氏と三浦氏が対立した幕府内乱「宝治合戦」において、季光は三浦氏側につき、敗北。
息子たちとともに自刃してしまいます。
このうち、四男の経光は難を逃れていましたが、所領は没収されてしまう流れに。
これを見た従兄の長井泰秀が、所領の安堵に奔走。
結果、安芸国と越後国(新潟県)にそれぞれ領地を残すことに成功しています。
子孫は越後北条氏・安芸毛利氏に
経光は所領のうち、越後国佐橋荘(現・新潟県柏崎市)を長男の基親に相続。
基親は当初毛利姓でしたが、拠点が佐橋荘北条になったことで、次第に北条氏を名乗るようになりました。
戦国時代に入り、その子孫は上杉謙信の家臣として活躍したとされます。
そして、経光の四男・時親は安芸国吉田荘を相続。
この時親こそ、中国地方で覇権を振るった戦国武将・毛利元就へと通じているのです。
毛利家の人物に「元」の字を冠した名前が多いのは、祖先である大江広元にならってのこと。
広島県の「広」の字は広元から採ったものだという話もあります。
五男・忠成
五男の忠成は、広元から尾張国海東郡(現・愛知県名古屋市など)を与えられ、海東氏を名乗りました。
鎌倉幕府では評定衆にも任じられていましたが、兄・季光が宝治合戦で北条氏と対立したのを契機に免官されてしまいます。
子孫として挙げられるのは、娘婿となった酒井氏。
徳川家康に仕え、徳川四天王と呼ばれた酒井忠次などが有名です。
きょうのまとめ
鎌倉~戦国時代にかけて、全国各地に氏族を起こした大江広元の子孫たち。
なにより、広元が息子たちに残した所領の多さに驚かされます。
やはり将軍の右腕というのは、伊達じゃないのですね。
最後に今回のまとめ。
① 大江広元の息子は計6人。うち5人は、広元が賜った膨大な領地をそれぞれに与えられ、各々で氏族を起こしていった。
② 子孫でもっとも有名なのは戦国武将・毛利元就。四男・季光が毛利家を創設し、次男・時広の子孫が重臣としてその覇権を支えた。
③ 長男・親広、三男・政広の子孫は戦国末期に衰退。五男・忠成の女系子孫には、徳川家重臣の酒井氏がいる。
家系図を辿ると、戦国大名の出自が見えてくるのもおもしろいですね。
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