山内首藤経俊とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

伊勢・伊賀国の守護を任じられるなど、鎌倉幕府御家人でも源頼朝から特に厚遇された

山内首藤経俊やまのうちすどうつねとし

実はその出世ぶりに似合わず、あまり優れた人物ではなかったという話もありますが…。

なぜ頼朝はそれほどひいきにしていたのでしょう。

いったいどんな人物だったのでしょうか?

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、山口馬木也さんに配役が決定。

放送に先駆け、経俊の生涯をしっかりチェックしておきましょう!
 

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山内首藤経俊はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:相模国鎌倉郡山内荘(現・鎌倉市山ノ内)
  • 生年月日:1137年
  • 死亡年月日:1225年7月27日(享年89歳)
  • 伊勢・伊賀国守護を務めた鎌倉幕府御家人。代々、源氏に仕えた家柄にあったため、源頼朝から厚遇された。
 

山内首藤経俊 年表

年表

西暦(年齢)

1137年(1歳)刑部丞ぎょうぶのじょう・山内首藤俊通としみちの三男として生まれる。

1160年(24歳)「平治の乱」で父俊通、兄俊綱が戦死。家督を相続する。

1180年(44歳)「石橋山の戦い」に参陣。源頼朝に弓を引き捕えられるも、赦免。以後、頼朝臣下に下った。

1184年(48歳)平氏残党の反乱鎮圧のため出陣。同年、伊勢・伊賀国守護に任じられる。

1185年(49歳)頼朝に無断で朝廷より官職を賜り、関東への帰国を禁じられる。

1189年(53歳)奥州合戦に参陣。

1195年(59歳)頼朝の上洛、源頼家の鶴岡八幡宮参拝に随行。

1199年(63歳)御家人・梶原景時の排斥に協力。連判状に名を連ねる。

1204年(68歳)伊勢・伊賀で平氏残党の反乱が起り、鎮圧に失敗。両国守護の座を剥奪される。

1216年(80歳)三代将軍・源実朝さねともに随行し、相模川に赴く。

1225年(89歳)死没。

 

山内首藤経俊の生涯

山内首藤経俊の生涯にまつわるエピソードを紹介します。

山内首藤家当主となる

1137年、山内首藤経俊は、父俊通の三男として生まれます。

首藤氏は、平安中期、鎮守府将軍に任じられた藤原秀郷の末裔。

俊通の代で相模国山内荘を本拠としたために、山内首藤氏を名乗るようになりました。

(※鎮守府将軍…陸奥国に置かれた鎮守府の長官。平安中期からは名誉職の意味合いが強くなった)

山内首藤氏は兼ねてから源氏に仕えた一族であり、経俊の母は、源頼朝の乳母も務めた山内尼やまのうちのあま

源氏の臣下でも特に優遇される地位にあり、経俊自身、頼朝とは幼少からの仲にありました。

そんな山内首藤家の子として育った経俊は、1160年にその家督を継承。

源氏と平氏が朝廷での覇権をかけて争った「平治の乱」において、父俊通、兄俊綱が戦死したためでした。

このとき経俊は病気で参陣しておらず難を逃れていたのです。

源頼朝に弓を引く

代々源氏に仕えてきた山内首藤氏ですが、平治の乱で源氏が没落したのち、経俊は平氏に肩入れしました。

1180年、後白河法皇と平氏の対立を受け、源頼朝が平氏討伐を掲げた際も、経俊は協力を要請しに来た頼朝の使者をあざ笑い、追い返したといいます。

「頼朝が平氏に逆らうなど、富士と背比べをするようなもの、ネズミが猫に噛みつくようなものだ!」

などと、言い捨てたのだとか。

このあと経俊は大庭景親おおばかげちかの軍に従い、「石橋山の戦い」で頼朝軍を撃破。

戦場では頼朝に弓を引くという、旧恩もいとわない振る舞いをしています。

ここまでの動向を見るに、経俊は長いものに巻かれるタイプの、したたかな人物だと映りますね。

その後、頼朝が鎌倉で体勢を立て直すと、大庭景親の降伏に伴い、経俊も捕らえられることになります。

このとき、山内尼が涙ながらに経俊の助命を懇願したという話。

すると頼朝は自身の甲冑を持ち出し、これを山内尼に見せました。

そこに刺さった矢には、たしかに経俊の名が記されており、山内尼も言葉を失ったといいます。

とはいえ、やはり乳母兄弟の縁からでしょう、結局経俊は許され、鎌倉幕府御家人に列されることになりました。

幕府御家人としての地位

御家人となった経俊は、1184年、伊勢国を中心とする平氏残党の反乱を鎮圧すべく出陣。

平氏の本軍はすでに近畿を追われ、源範頼のりより軍が中国地方へ追討に向かっているその最中の話でした。

このとき、頼朝に従わなかった源氏方・志田義広も混乱に乗じる形で活動しており、経俊は主にそちらの討伐に向かっていたようです。

経俊はこの戦で武功らしい武功は特に挙げなかったものの、同年、伊勢・伊賀両国の守護に任じられることに。

頼朝の乳母兄弟という縁は、それほどに強権をもつものなのでしょうか。

また、平氏の滅亡後、源義経が頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを禁じられたという逸話は有名。

ここにも経俊がちょっと絡んできています。

義経が叱責されたのは、頼朝の許可なく、朝廷より官職を賜ったことが原因。

幕府が政権を引っ張っていこうという時期に、朝廷との権利関係がややこしくなることをするなということです。

このとき、実は経俊も同じように官職を賜っており、関東へ帰ることを禁じられているのです。

頼朝
官職を賜ったところで、なんの役にも立たないくせに!

と、頼朝からなかなかの言われようをしていたりも…。

経俊は家柄で出世できたものの、やはりあまり能力のある人ではなかったようですね。

とはいえ、このあとも厚遇されたことは変わらず、頼朝の上洛など、重要行事の際は近臣の列に加えられています。

裏切ったこともあれば、役にも立っていないのに…なんかズルイ。

「三日平氏の乱」で失脚

経俊は頼朝が没したあとも伊勢・伊賀の守護として重用されていました。

しかし1203年、予想外の事件に巻き込まれて失脚することになります。

源平合戦の際に伊勢で反乱を起こした平氏残党の子孫が残っており、伊勢国守護所を襲撃したのです。

当時、幕府は二代将軍・頼家の治世が揺らぎ、御家人の北条氏、比企氏が仲たがいをしているような状況。

平氏残党は、幕府の威信が衰えたこのタイミングを再起のチャンスと見定めたわけですね。

このとき、経俊は事件を無事に収拾したと思いきや、重大なミスを犯します。

事件を平氏残党によるものと判断することができず、代わりに伊勢国員弁郡いなべぐんの役人が首謀者として逮捕されることになってしまったのです。

すると、伊勢国周辺に潜んでいた千人あまりの平氏勢は一斉に蜂起。

なにも準備していなかった経俊は逃亡を余儀なくされ、伊勢は平氏勢に占拠されてしまいます。

これを受けた幕府は、京都守護・平賀朝雅ひらがともまさを派遣。

反乱は平賀によって三日で鎮められたため「三日平氏の乱」と呼ばれています。

そして、またしてもなんの役にも立てなかった経俊は、今度こそ失脚を免れられませんでした。

1204年、伊勢・伊賀守護の座は平賀に移されることに。

このあと、経俊の名は史料からパタリと姿を消し、わずかに残っているのは、1216年、三代将軍実朝さねともに従い、相模川へ赴いたというものだけです。

こうして1225年、経俊は89歳にして死没。

失脚も年齢を考えれば隠居のようなものということで…それなりに恵まれた人生だったのでは?

 

きょうのまとめ

旧恩を裏切って源頼朝に弓を引き、幕府ではなんの役にも立っていないのに厚遇され…。

山内首藤経俊のイメージは、終始ズルイ人という感じでした。

史上に名前が残っている人物には見習いたいと思う部分が少なからずあるものですが、この人は例外かも。

最後に今回のまとめです。

① 頼朝挙兵の際、協力を要請されたが平氏方に従った

② 平氏方の兵として捕えられるも、乳母兄弟の縁から赦免。頼朝から厚遇された

③ 頼朝の死後、伊勢国の平氏残党の反乱を抑えられなかったため、守護の座を降ろされる

経俊はほんとに頼朝との縁だけの人なのでしょうか?

曲がりなりにも、20年も伊勢・伊賀を治めてきたわけですし、もうちょっと良い部分もあったのでは?

【参考文献】
国史大辞典
Wikipedia/山内首藤経俊

 
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