源義経とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

源平合戦で戦功を挙げたヒーローといえば、誰しも一番に思い浮かべる

源義経みなもとのよしつね

類稀なる戦の天才として、逸話や伝説に事欠かない人物です。

しかし、思いがけず謀反人となり幕府を追われたため、実際に活躍した期間は10年もありません。

短い生涯で史上に大きな影響を残したという意味でも、やはり興味深い人ですね。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、菅田将暉さんに配役が決定。

力強い演技に期待がかかります!

いったい、義経とはどんな人物だったのか、放送に先駆けてしっかり予習しておきましょう。

 

源義経はどんな人?

プロフィール
源義経

中尊寺所蔵の義経像(部分。戦国時代か江戸時代作)

  • 出身地:京都
  • 生年月日:1159年
  • 死亡年月日:1189年6月15日(享年31歳)
  • 源平合戦で平氏を滅ぼし、鎌倉幕府の成立に貢献した人物。将軍・源頼朝との対立で幕府を追われた悲劇のヒーロー。
 

源義経 年表

年表
西暦(年齢)
1159年(1歳)源義朝の九男として生まれる。「平治の乱」で父義朝が討伐され、京都を追われる。

1169年(11歳)京都・鞍馬寺に預けられる。

1174年(16歳)僧となることを拒否し、自ら元服。奥州藤原氏を頼り、平泉(現・岩手県西磐井郡平泉町)へ下る。

1180年(22歳)兄・源頼朝の挙兵に従うべくはせ参じる。黄瀬川の陣で対面を果たした。

1184年(26歳)頼朝の代官として、兄範頼のりよりとともに京都へ派遣される。「宇治川の戦い」で源義仲、「一ノ谷の戦い」で平家軍を退ける。

1185年(27歳)「屋島の戦い」「壇ノ浦の戦い」で活躍し、平家を滅亡に追い込む。戦場での振る舞いを咎められ、兄頼朝と対立。幕府を追われる。

1187年(29歳)奥州藤原氏を頼り、平泉に潜伏。

1189年(31歳)幕府から義経討伐を迫られた藤原泰衡が挙兵。500騎の兵に取り囲まれ、衣川館ころもがわのたちにて自刃する。

 

源義経の生涯

以下より、源義経の生涯にまつわるエピソードを紹介します。

不遇の幼少期

1159年、源義経は、源氏の棟梁・源義朝の九男として京都で生まれます。

同年、源氏と平氏が朝廷での覇権を争う「平治の乱」が勃発。

父義朝が賊軍の将として討たれたため、源氏は京都を追われる立場となっていました。

幼少の義経は、母常盤御前ときわごぜんに連れられ大和国(現・奈良県)へ逃れることに。

のちに京都へ戻ると、11歳のころ、鞍馬寺へと預けられます。

このとき、名を幼名の牛若から、遮那王しゃなおうへと改めました。

この時期の義経に関する史実の記録は残されていませんが、伝説では

・鞍馬山の天狗(従者のこと?)と剣術修行に勤しんでいた

・兵法の大家・鬼一法眼きいちほうげんから中国の兵法書『六韜りくとう』を盗み出し、兵法を学んだ

など、源氏の再興に向け、着々と牙を研いでいる様子が描かれています。

16歳になると、自らの手で元服して武士になり、義経と改名

父義朝と同じく、源氏にゆかりのある「義」の字を用いることにしたといいます。

そしてこのあと、義経が頼ったのが東北地方を治めていた奥州藤原氏でした。

朝廷から鎮守府ちんじゅふ将軍の地位を授けられた、平氏に対抗し得る唯一の巨大勢力でした。

そんな奥州藤原氏を主君として選んだ義経。

やはり「いずれ平氏の討伐を!」という志のもと、動いていたのでしょう。

頼朝との再会

1180年のこと、後白河法皇の第三皇子・以仁王もちひとおう平氏討伐の令旨を各国の源氏へ向けて発します。

朝廷での専横ゆえに法皇と対立し、挙句法皇を幽閉する暴挙に出た平氏に対し、反撃の狼煙のろしが上がったのです。

これを受け、義経の兄であり、源氏の棟梁の座を引き継ぐ源頼朝が挙兵

鎌倉を拠点に新勢力が築かれ始めると、義経もここにはせ参じることを決意します。

奥州藤原氏の当主・藤原秀衡ひでひらは義経との別れを惜しむもこれを支援し、家臣の佐藤兄弟を付き従わせました。

佐藤兄弟はのちに源平合戦でも活躍し、義経四天王にも数えられた勇士。

ふたりを従者としたことに、秀衡が義経の才を買っていたことが表れていますね。

義経と頼朝は、鎌倉方が平氏方を退けた「富士川の戦い」の直後、黄瀬川の陣(現・静岡県駿東郡清水町)で再会。

幼少より離れて暮らしたふたりは、このときほぼ初対面に等しかったはずです。

ふたりが感涙を流したとされるのは、懐かしさというより、兄弟の義理に引き寄せられた縁に対するものだったのでしょう。

源平合戦での活躍

1183年になると、北陸地方で勢力を築いた源義仲が、頼朝に先立って京都の平氏勢を追い出す戦功を挙げます。

しかし、軍による略奪行為の横行や、その後の平氏追討が行き詰ったことなどを理由に、義仲と後白河法皇は対立。

さらに、西国で勢力を回復させた平氏勢が再度の入京を目指し、播磨国(現・兵庫県)まで迫る事態に。

朝廷は味方であったはずの義仲と、平氏の両方に敵として囲まれる絶体絶命の危機にさらされるのです。

このとき頼朝の命で伊勢に滞在していた義経は、朝廷の使者から一連の報告を受け、在地の武士を頼って兵力を増強。

翌年、兄・源範頼のりよりの軍が派遣されると、これと連携を取り、義仲や平氏の討伐に乗り出します。

ここから義経は幾多の戦を経験していくことになりますが、今回はそのなかでも目立った逸話の残る戦いを挙げておきます。

一ノ谷の戦い

源平合戦において、義経の軍才が注目されるきっかけとなったのが「一ノ谷の戦い」です。

このとき、平氏の兵力約10万に対して、源氏は兵力6万6千ほど。

多勢に無勢で源氏が攻めあぐねているところ、義経はわずか70騎ばかりを率いて軍から離脱します。

そして敵背後の山中へ上ると、そこから駆け下りて奇襲攻撃を仕掛け、平氏勢を大混乱に陥れ、撤退を余儀なくさせるのです。

俗に鵯越ひよどりごえの逆落とし」と呼ばれる逸話ですね。

奇襲に使われた崖は、多くの兵が駆け下りるのを躊躇するほどの断崖絶壁だったという話。

義経は先に馬だけを走らせてみせ、

義経
心して下れば馬を損なうことはない!

と、兵を鼓舞。

自ら先陣を切って後に続かせたといいます。

屋島の戦い

一ノ谷の戦い以降、西国(四国や九州など)へ逃れた平氏の追討は範頼軍に任せられ、義経軍は京都へ滞在することになりました。

本来、義経も平氏の追討へ向かう予定のところ、伊勢や伊賀などで平氏残党による反乱が起り、それどころではなくなってしまったのです(三日平氏の乱)。

一方、平氏の追討へ向かった範頼軍は、兵糧や兵船の不足で進軍が滞り、平氏勢に回復の隙を与えてしまいます。

この状況を見て、京都に滞在していた義経の奇襲作戦が決行されることとなるのです。

讃岐国さぬきのくに(現・香川県)屋島を拠点とした平氏勢は、海沿いにあるその立地から、主に海からの攻撃に警戒をおいていました。

義経はこれを逆手に取り、まず阿波国あわのくに(現・徳島県)へ上陸。

そこから屋島へ進み、平氏勢がまったく予想していなかった陸路から攻撃を加える作戦を企てます。

その発想自体も見事なものですが、義経のすごいところはなんといっても、作戦決行前のアクシデントの乗り越え方でした。

義経が摂津国渡辺津せっつのくにわたなべのつ(現・大阪市)から出航を試みた際、瀬戸内海は運悪く暴風雨に見舞われ、多くの御家人が出航を見合わせる事態となっていました。

しかし、好機を逃すことを嫌った義経は、出航を渋る船頭を脅し、わずか5艘の船で出航

そして、足りない兵力は阿波国で在地の武士に協力を仰いだほか、屋島周辺の民家に火を放ち、大軍が押し寄せるような演出をして補ったのです。

意表を突かれた平氏勢はすっかり戦意を失い、下関へ逃亡。

「壇ノ浦の戦い」で陸側を抑えた範頼軍、海側から攻め寄せた義経軍によって追い込まれ、滅亡することになるのです。

頼朝との対立


源平合戦で多大な戦功を挙げた義経ですが、頼朝からの評価は期待していたものとは正反対でした。

義経は壇ノ浦の戦いのあと、平宗盛、清宗を連行するべく鎌倉へ帰参するも、戦場での独断専行を咎められ、鎌倉入りを禁じられてしまうのです。

戦場において、義経は以下のような態度を取っており、従えた部下から苦言が呈されていました。

・部下の進言を一切聞き入れない。意見しようとすると逆ギレする

・頼朝の指示を仰がず、降伏した敵兵を勝手に処罰する

・範頼に任された戦後処理などを巡って、越権行為があった

これらも叱責の大きな要因でしたが、なにより頼朝を怒らせたのが、義経が頼朝の許可なく、朝廷から官職を賜っていたことでした。

一ノ谷の戦いのあと、京都に残って平氏残党の反乱を鎮めた義経は、後白河法皇からその戦功を評され、検非違使けびいしの職に任じられます。

(※検非違使…京都の治安維持を任される職)

義経は朝廷との結びつきを強くする意味で良かれと思って官職を受けたのですが、頼朝にとってこれは余計なことでした。

頼朝は朝廷に代わって幕府が政権を握る新体制を目指して組織を運営しています。

それなのに、幕府の人間が朝廷から官職を賜っていては、権利関係上、非常にやりづらくなるのです。

義経は戦の才能こそあっても、組織の運営に関しては配慮にかける部分が少なくなかったようですね。

こうして鎌倉へ帰れなくなった義経は、

義経
鎌倉に恨みのある者は義経に従え!

と、頼朝へのあからさまな憎悪を見せるようになっていきます。

頼朝はさらに義経の所領をすべて没収し、両者の対立は急激に深まっていきました。

官職を無断で賜った義経に非があることはたしかでも、「あれだけ戦功を挙げたのに…」と、同情せずにはいられない。

この逸話から、弱い立場の人に対し、理屈抜きに同情してしまうことを「判官贔屓ほうがんびいき」と呼ぶようになったといいます。

悲劇の最期

鎌倉を追われた義経は、その後しばらく京都に居を構えていましたが、幕府に従わない源行家との内通を疑われ、とうとう完全な謀反人に。

その後、差し向けられた刺客を一度は退けて頼朝討伐を掲げるも、従う武士の少なさから九州へ逃げ延びようとします。

しかし、航路の途中、暴風雨に見舞われ、従者たちが散り散りになってしまい断念。

以降は頼朝が圧力をかけたことで、京都の貴族や寺社も頼れなくなり、古巣の奥州藤原氏のもとへ身を寄せることを選びます。

当主の藤原秀衡は、義経を大将に掲げ、鎌倉方と一戦交えることも考えていたといいますが、1187年の末に死没。

跡を継いだ藤原泰衡やすひらは、頼朝から朝廷を通じた催促をたびたび受け、1189年に義経を討伐することを決意します。

住居にしていた衣川館ころもがわのたちを取り囲んだ泰衡軍500騎に対し、義経の従者は十数騎ほど。

もはやこれまでと悟った義経は、館の外へ姿を現すこともなく、妻子とともに自刃したとされています。
 

源義経とチンギス・ハンは同一人物?

チンギス・ハン

時は下って江戸時代のころ、源義経は奥州で亡くなったのではなく、北海道へ逃げ延び、その後中国大陸へ渡ったとする俗説がささやかれるようになりました。

そう、義経とモンゴル帝国の初代皇帝チンギス・ハンが同一人物だという説があるのです。

中国大陸において、チンギス・ハンが台頭したのは、1203年の話。

丁度、義経の没年直後から、大陸で覇権を誇るようになっていくのですね。

さらに…

・皇帝となるまでの前半生に謎が多い

・騎馬隊を用いて敵兵をおびき寄せ、一網打尽にする奇襲作戦が得意

・中国清王朝の六代皇帝、乾隆帝が文書のなかで「私の先祖は源義経だ。清王朝の”清”は義経の系統である清和源氏から採ったもの」と語った噂がある

・北海道のアイヌ民族が信仰する神オキクルミの正体は義経だという説がある

といった要素から、義経が生き延びて、モンゴル帝国を率いていたと本気で信じられていた時代があったのです。

戦術家として、日本史屈指ともいえる義経が、その手腕を携えて大陸の覇者になっていたとしたら、ロマンしかありませんよね!

子孫のフビライ・ハンが日本に来襲し、鎌倉幕府と激戦を交えた元寇げんこうにしても、世代を超えた壮大な復讐劇です。

しかし…20世紀以降、モンゴルの歴史書『元朝秘史』が世界的に出回り始めたことで、この説は完全に否定されることとなります。

同書には、チンギス・ハンがモンゴルの生まれであること、父親も母親もれっきとしたモンゴル人であることが、明確に記されているのです。

史料が成立したのも13~14世紀と、同一人物説が出回るずっと以前の話でした。

よって義経が大陸に渡ったという話は、海外の正確な情報が伝わっていなかった江戸~明治期特有の妄想だったということです。

義経は亡くなったあと、その首が鎌倉に送られ、首実検もされていますしね。

ただ、約800年前のことですから、情報はいかようにも書き換えられる…と言い出せばキリがないのですが。
 

きょうのまとめ

鎌倉幕府の成立に多大な貢献をしながらも、謀反人として非業の最期を遂げることとなった源義経。

戦の才能は飛びぬけたものですが、なにより、波乱万丈なその境遇が人気の理由といえます。

義経にとっては望まないことだったとしても、それだけ歴史にドラマを求める人が多いということですね。

最後に今回のまとめ。

① 源義経は幼少より、没落下にあった源氏の背景から寺に預けられた。伝説では、この時期に剣術や兵法を一心に身につけたとされている。

② 将軍・頼朝の代官として派遣され、兄範頼とともに平氏を滅亡させる。「一ノ谷の戦い」「屋島の戦い」など、少数の兵による奇襲作戦から、史上屈指の戦術家として注目されることとなった。

③ 源平合戦後は、その戦功もむなしく、戦場での不遜な振る舞いから幕府を追われることになった。

④ 義経とチンギス・ハンの同一人物説は、モンゴルの正確な史料が日本に伝わっていなかったがゆえの妄想?

今回の大河ドラマは義経の没後の話がメインなので、序盤から幕府のお尋ね者となる怒涛の展開が期待できそうです。

 
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