三善康信とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

鎌倉幕府問注所の初代執事

三善康信みよしのやすのぶ

朝廷に務める官吏の立場から、源頼朝に情報伝達を行い、幕府の成立に貢献。

以降、有力御家人として組織の基盤を担っていった人物です。

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、小林隆さんに配役が決定!

小林さんは

・2006年の『新選組!』
・2011年の『江~姫たちの戦国~』
・2014年の『真田丸』

と、出演歴があり、近年の大河ではすっかりおなじみの存在です。

そんな小林さんが今回演じる三善康信とは、いったいどんな人物だったのでしょうか?

 

三善康信はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:京都
  • 生年月日:1140年
  • 死亡年月日:1221年8月27日(享年82歳)
  • 鎌倉幕府問注所の初代執事。源頼朝の要請で幕府へ出仕し、組織の基盤を担った。

 

三善康信 年表

年表

西暦(年齢)

1140年(1歳)朝廷の下級官吏・三善康光の子として生まれる。

1160年?(21歳?)朝廷へ出仕。治部省じぶのしょうへ務める。

1162年(23歳)中宮・藤原育子の侍従職を兼任。

1177年(38歳)典薬大夫となる。

1184年(45歳)鎌倉幕府へ出仕。訴訟事務を扱う問注所の初代執事となる。

1221年(82歳)「承久の乱」で官軍への抗戦を主張した大江広元を支持。同年、病没する。

 

三善康信の生涯

以下より、三好康信の生涯にまつわるエピソードを辿ります!

算道家の家系に育つ

1140年、三好康信は下級公家・三善康光の子として生まれます。

三善家は代々、算術研究を行っている算道家の家系で、大学寮において算博士(教授)を務めるなどをしていました。

そういった家柄も手伝って、康信も21歳ごろに朝廷へ出仕

婚礼や葬儀などの取り仕切りや、戸籍関係の事務を担う治部省じぶのしょうへ務めました。

1162年からは中宮・藤原育子の侍従(付き人)にも登用されており、相当に優秀な官吏であったことがわかります。

侍従職を解かれたのちは、医療や調薬を担当する典薬寮にて、典薬大夫(長官)も務めました。

源頼朝との親交

康信は鎌倉幕府へ出仕する以前から、源頼朝と親交がありました。

康信の母は頼朝の乳母の妹にあたり、康信と頼朝も若い時分からの知人だったのです。

乳母は育ての母なので、血縁関係はなくても、従兄弟のような関係だったのかも。

具体的にどんなやり取りがあったかというと…

・源義朝が平氏に敗れた「平治の乱」以降、伊豆へ配流となった頼朝に宛て、康信は月に3度のペースで京都の情勢を知らせていた

・1180年、平家討伐を掲げて挙兵した以仁王もちひとおうが敗れた際には、平家が各国の源氏討伐に乗り出すことを危惧し、頼朝に奥州藤原氏のもとへ逃げるよう促した

(※以仁王…後鳥羽天皇の第三皇子)

頼朝にとって、なんの光も見えない辛い時代を、康信が支えていたわけですね。

1182年には頼朝が伊勢神宮に参拝し、諸国の平和を願う願文を奉納。

その草案を作ったのも康信でした。

平氏討伐の挙兵以前から頼朝に積極的に協力していたという点で、康信は幕府の創設に大きく貢献したといっていいでしょう。

鎌倉幕府へ出仕

1184年、康信は頼朝からの声掛けで鎌倉へ下向。

鶴岡八幡宮で頼朝に対面したのち、鎌倉幕府へ出仕しました。

幕府では問注所の初代執事に就任。

問注所は訴訟事務を取り扱う部署で、現在でいう裁判所のような位置付けです。

当時はまさに源平合戦の渦中にあり、源氏内部でも衝突が起こるなど、国を二分する動乱が巻き起こっていた時代。

各国の所領を巡り、幕府には訴訟が相次いでいました。

問注所の制度を確立させ、急務とされていたこの問題を解決したのが康信だったわけですね。

大江広元とともに組織の基盤づくりに貢献

康信は朝廷でも有能な官吏として知られていただけあり、幕府と朝廷のパイプ役としても活躍しました。

「朝廷が政治を幕府に委託している」

という体制がまだできあがっていない当時において、康信が担ったその役割は非常に重要なもの。

頼朝の右腕とされた大江広元もその役を担っており、康信と大江というふたりの文官によって、組織運営の基盤が形作られたといえます。

二代将軍・頼家の代に、有力御家人による「十三人の合議制」が成立した際も、大江と康信はその影響力をもって、面々に名を連ねています。

また、1221年の「承久の乱」では、後鳥羽上皇の挙兵に対し、抗戦を主張した大江を康信が支持。

初期の鎌倉幕府において、両者が協力しながら組織を動かしていたことがわかります。

このほか康信は、北条政子が頼朝を追悼するために建立した寿福寺(鎌倉市扇ヶ谷)の「造作はじめ」の儀式を行っており、ここでも信任の深さを露わにしています。

 

裁判がうるさすぎて問注所を移転?

ここで、問注所の設置を巡るちょっとおもしろい逸話をひとつ。

鎌倉幕府の問注所は、1184年の設置当初、頼朝の邸宅内に設けられていました。

しかし、あまりに連日の訴訟が相次ぎ、頼朝はその騒がしさにうんざり。

問注所の移転が命じられます。

こうして1192年に、問注所は鎌倉名越にある康信の邸宅へ移転

康信邸へ移ってからは、幕府の書庫の役目も果たしていたといいます。

その後の1199年、幕府郭外に問注所を新設。

康信邸への移転は臨時処置という感じでしょうか。

ところで、そもそも問注所を新設するつもりだったのなら、頼朝が移転を命じてから新設されるまで、時間がかかり過ぎていると思いませんか?

実はその点から、頼朝が移転を命じたか否かにも疑問が呈されているんです。

ほんとはもっと違った便宜上の理由から、郭外へ移されたのかも?

私としてはうるさすぎて移転を命じたというほうが、頼朝の人間らしさが垣間見えておもしろく感じるのですが。

 

子孫は問注所氏・町野氏に

豊臣秀吉

康信が問注所の初代執事を務めて以来、この職は三善家の世襲となりました。

康信は筑後国生葉郡ちくごのくにいくはぐん(現・福岡県八女市、うきは市)に所領を賜っており、ひ孫の康行がこの地に土着。

以降、問注所氏を名乗るようになります。

もはや問注所を苗字にしてしまうとは、一族が康信の功績を誇りにしていることがよくわかりますね。

戦国時代になると、問注所氏は筑後国、豊後国ぶんごのくに(現・大分県)守護・大友氏に仕官。

大友氏が没落したのちは、豊臣政権下で重臣とされた小早川氏に仕えました。

このほか、孫の康持が起こした町野氏は、鎌倉・室町幕府で奉公衆を務めた家柄。

戦国時代には、豊臣政権下で東北地方を任された蒲生氏郷がもううじさとに仕えたとされています。

 

きょうのまとめ

政務に精通していた三善康信の出仕は、初期の鎌倉幕府を安定させるために非常に重要な要素だったといえます。

頼朝にとって信用のおける人材が朝廷にいたこと、挙兵以前の支援から考えても、その意味は計り知れません。

最後に今回のまとめ。

① 三善康信は、代々算術研究を行っている算道家の家系で育った。朝廷では儀礼・戸籍関係の職を務め、中宮の侍従も任された。

② 康信は源頼朝と旧知の仲で、京都の情勢を知らせるなど、頼朝が挙兵する以前から支援を行っていた。

③ 鎌倉幕府では、訴訟事務を取り扱う問注所執事を担当。体制を確立させ、課題となっていた所領問題を解決に導いた。

④ 朝廷でも有能で通っていた康信は、幕府と朝廷のパイプ役も担い、「朝廷が幕府に政治を委託している」という体制を確立させることに貢献した。

今作の大河ドラマは康信のような文官にもスポットが当たっているので、政治面の描写に期待がかかりますね!

 
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