織田信長とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

織田信長と聞いたら何を思い浮かべますか?

本能寺の変、安土城、それとも時に残酷といわれた性格でしょうか。

織田家の家系図や家紋が頭に浮かんだあなたは、かなり詳しい人です。

信長の人生とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。

年表とあわせてご紹介していきたいと思います。

どうぞ最後までご覧ください。

 

織田信長はどんな人?

  • 出身地: 尾張(現在の愛知県)
  • 生年月日: 1534年
  • 死亡年月日: 1582年6月21日(享年 49歳)
  • 室町幕府を滅ぼし、畿内を平定した戦国大名。家臣の明智光秀に襲われ、本能寺で自害した。

織田信長 年表

年表

西暦(年齢)

1534年(1歳)尾張国で織田信秀の子として生まれる。

1559年(26歳)尾張国を統一する。

1560年(27歳)桶狭間の戦いで今川義元を破る。

1567年(34歳)斎藤道三の孫・竜興(たつおき)を破り、稲葉山城へ入城。岐阜と改める。

1568年(35歳)上洛し、足利義昭を室町幕府第15代将軍に立てる。

1570年(37歳)姉川の戦いで、信長・家康の連合軍が浅井長政・朝倉義景の連合軍を破る。石山戦争始まる(~1580年)。

1571年(38歳)延暦寺焼き討ち。長島一向一揆への攻撃(1回目)。

1572年(39歳)三方ヶ原の戦いで、信長・家康の連合軍は武田信玄に惨敗する。

1573年(40歳)足利義昭を追放し、室町幕府は滅亡。長島一向一揆への攻撃(2回目)。

1574年(41歳)長島一向一揆への攻撃(3回目)。

1575年(42歳)長篠の戦いで、信長・家康連合軍が武田勝頼を破る。越前一向一揆の鎮圧。

1576年(43歳)安土へ移る。

1582年(49歳)本能寺の変で自害。

 

全国統一の先駆けとなるも家臣に襲われて自害

1534年、織田信長は現在の愛知県で織田信秀の子として生まれました。

すっかり信長ばかりが有名になってしまいましたが、
父の信秀も優れた武将だったといわれています。

また信秀の子には、
他にも悲劇のヒロインとして有名お市の方がいます。

若い頃の信長は「うつけもの」と言われましたが、
本家を滅ぼして尾張国を統一しました。

翌年の1560年には今川義元の大軍を少ない兵で倒し、
頭角を現すことになります。

それまでの常識にとらわれない合理的な発想で、
天下統一への足掛かりを作りました。

信長のやり方に反対する者がいれば、
たとえ寺社であっても容赦なく立ち向かいました。

有名な延暦寺焼き討ちでは、
僧侶だけでなく、女性や子どもまで殺したといわれています。

さらに経済的な感覚にも優れていた信長は、
「楽市楽座」「関所の撤廃」を行いました。

楽市楽座とは簡単にいうと、
「昔からのルールに縛られず、誰でも自由に商売できるようにした制度」です。

それまで一部の人びとに握られていた既得権を奪うことに成功します。

また関所をなくしたことによって、
それまで必要だった交通料を払う必要がなくなり、

「人やモノが自由に行き来できる」

ようになりました。

それに加えて、「情報も集まりやすくなった」といいます。

また信長は茶の湯を政治に持ち込み、
戦国武将たちにとって新たな価値をつくることに成功します。

このように信長は様々な新しいことを行いました。

しかし独断専行で事を決める性格が裏目に出てしまったのか、
1582年には家臣の明智光秀によって自害に追い込まれます。

信長は数え年で49歳にして、波乱に満ちた生涯を終えました。

しかし信長の家臣であった豊臣秀吉がその後、

天下統一を成し遂げることになります。

 

織田信長にまつわるエピソード

常識にとらわれない生き方

若い頃は「うつけもの」と呼ばれていた信長です。

父親の葬儀ではお焼香を投げつけるなど、
非常識な行動が目立ちました。

ですが信長は決して常識を知らなかったのではありません。

常識は破っていましたが、しっかりと知っていたのです。

「マムシ」と恐れられた義理の父・斎藤道三に会いに行くときは、
きちんとした服装だったといいます。

 

関連記事 >>>> 「織田信長の家系図を簡単に解説。見えてくるその人物像」

 

どうやら相手を見極めていたようですね。

信長の常識破りは、
戦いや人事面でも発揮されます。

それまでは農民によって農閑期に行われていた戦ですが、信長は戦いの専門集団をつくったとされています。

また、織田政権内での人事は能力主義を採用していました。

当時、よそ者はいくら能力があっても出世はできませんでした。

例えば、朝倉氏に仕えていた明智光秀は、
優れた能力をもっていました。

ですが朝倉にとって”よそ者”だった光秀は出世できなかったのです。

しかし信長は、能力が高いものを取り立てることによって、
強い政権をつくっていきました。

そんな光秀に裏切られた本能寺の変は、
皮肉のような気もしますね。

 

関連記事 >>>> 「織田信長の性格について簡単まとめ

関連記事 >>>> 「織田信長 本能寺の変の真実とは?あの名言・舞の秘密」

 

極めつけは、抵抗する相手がたとえ寺社であっても容赦しなかったことです。

神仏に刃を向けることは、
他の戦国大名たちにはかなり勇気がいることだったようです。

例えば徳川家康が三河の一向一揆と対立したときには、
非常に忠実だとされていた徳川の家臣の中にも一向一揆側についてしまう人間が多かったようです。

寺社と戦うということは、
当時の人々からするとかなり恐ろしいことだったのでしょう。

ですが信長はそういった考えを否定し、
完膚なきまでに寺社を叩きのめしました。

鉄砲を使うなら火薬を

1575年、長篠の戦いで信長・家康の連合軍が武田の騎馬隊を破ります。

信長・家康連合軍はこの戦いに鉄砲を導入し、
戦国最強といわれた騎馬隊を倒したのです。

長篠の戦いは、
新しい戦のやり方への転換のように語られることもあります。

ですが、
信長だけがその新しい鉄砲の存在を知っていたのでしょうか?

いいえ、そうではありません。

武田勝頼の父・信玄も戦に鉄砲を使用しています。

信玄だけではありません。

他の武将たちも、鉄砲の重要性には気づいていたのです。

ではなぜ他の戦国大名たちは、
戦に鉄砲を大々的に用いることができなかったのでしょうか。

それは火薬の原料となる硝石(しょうせき)は当時、海外から輸入する必要があったからです。

鉄砲があっても、
肝心の火薬がなければ戦はできません。

これをいち早く見抜いた信長は、独自に硝石の輸入ルートを築いていたのです。

 

きょうのまとめ

最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。

織田信長についてまとめましたが、いかがでしたでしょうか。

信長とは、

① それまでの常識にとらわれずに生きた

② 経済や文化の重要性もきちんと理解した政策をとった

③ みんなが知っている知識をいち早く活かした

と言えるのではないでしょうか。

織田信長については、他にも色々な記事を書いています。

こちらの記事で触れたことをもっと詳しく書いた記事などもありますので、

信長に興味を持たれた方はぜひご覧ください。

 

関連記事 >>>> 「織田信長 魅せる城!安土城」

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