木戸孝允とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

幕末に活躍した志士たちは数多くいますが、「 維新三傑 」と呼ばれる人物をご存じでしょうか。

西郷隆盛・大久保利通、そして桂小五郎こと

木戸孝允です。

それでは、木戸孝允とはどんな人物だったのでしょうか。

今回は維新三傑のひとり、木戸孝允について簡単にご紹介します。

 

木戸孝允はどんな人?

  • 出身地: 長州藩萩呉服町(現在の山口県萩市)
  • 生年月日: 1833年6月26日
  • 死亡年月日: 1877年4月30日(享年 45歳)
  • 薩長同盟を結び、倒幕運動を推進する。明治新政府でも活躍した「 維新三傑 」のひとり。

 

木戸孝允 年表

年表
西暦(年齢)

1833年(1歳)長州藩医の和田家の次男として生まれる。

1840年(8歳)桂家の養子に入り、桂小五郎を名乗る。

1853年(21歳)練兵館塾頭になる。

1864年(32歳)禁門の変で敗北し、但馬出石に潜伏する。

1866年(34歳)坂本龍馬らの仲立ちにより薩長同盟を結ぶ。

1871年(39歳)廃藩置県を行う。岩倉使節団の一員として欧米へと赴く。

1874年(42歳)台湾出兵に反対して下野する。

1875年(43歳)参議に復帰する。

1877年(45歳)西南戦争最中に没する。

 

吉田松陰を師と仰ぎ明治維新の立役者に

木戸孝允は1833年、長州藩の藩医・和田家の次男として誕生しました。

桂家に養子に入ったことで、
桂小五郎と名乗ることになりました。

幼少の頃から木戸は優秀だったそうです。

年は3つしか離れていない吉田松陰のもとで兵学を学んでいます。

江戸へ出た木戸は、
剣の修行や学問を学んでいたそうです。

そして21歳のときにはペリーの来航を江戸で経験し、外圧というものを肌で感じたはずです。

同じく長州藩出身の高杉晋作や久坂玄瑞らとともに、尊王攘夷運動を展開します。

1866年には坂本龍馬や中岡慎太郎が仲介し、
薩摩の西郷隆盛と薩長同盟を結びました。

その後も木戸は長州藩を代表して薩摩藩との絆を強め、
倒幕運動を進めます。

明治新政府では岩倉具視に能力を買われ、
総裁局顧問に就任します。

そして五箇条の御誓文の作成(※)や版籍奉還、教育の充実などに尽力しました。

※原案を書いたのは福井藩士の由利公正(ゆり・きみまさ)です。

木戸は西南戦争中に病で亡くなります。

その病床で、

西郷よ、いい加減にせんかい

とうわごとを言っていたそうです。

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木戸孝允にまつわるエピソードや伝説

以上、木戸孝允の人生を簡単にまとめました。

それでは、下記では木戸にまつわる逸話をご紹介していきます。

芸者幾松との恋

木戸孝允のお墓は、どこにあるかご存知でしょうか。

京都の京都霊山護国神社にあります。

こちらには坂本龍馬や中岡慎太郎らの墓もあります。

他にも多くの幕末の志士たちが眠っているのですが、ひと際高い場所に木戸孝允のお墓はあります。

そしてその隣には「 松子 」という名の刻まれたお墓もあります。

「 幾松(いくまつ) 」とも呼ばれることもある、木戸孝允の妻のお墓です。

幾松はもともと京で売れっ子の芸者でした。

1864年、禁門の変で長州藩は窮地に追いやられます。

禁門の変: 長州藩と京都守護職・松平容保(まつだいら・かたもり)の率いる軍が戦った事件のこと。

これを機に、木戸孝允(当時は桂小五郎)は京で潜伏を余儀なくされました。

そこへ救いの手を差し伸べたのが幾松だったと伝えられています。

長州藩の人間は、発見されたら殺されるという空気が京にあった時代です。

そんな人を匿(かくま)ったら、もしかしたら幾松まで殺される可能性もあったのです。

しかし幾松は何度も食べ物を運ぶなどし、日々隠れ場を変えていたそうです。

さらに幾松は小五郎のために、芸者をしながら情報収集を行っていたようです。

苦難を共にした二人は、明治維新を迎えてから正式に結婚しました。

身分の差を乗り越え、ついに結ばれたというわけです。

「 逃げの小五郎 」と呼ばれた剣の達人

あまりイメージはありませんが、木戸孝允の剣術の腕前は相当なものだったそうです。

あの新撰組の近藤勇までも

恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ

と評したほどだったといいます。

というもの木戸は、神道無念流(しんとうむねんりゅう)という流派の免許皆伝を得ています。

練兵館という道場では、塾頭を務めた経験もあるのです。

しかし、なぜ木戸孝允には剣術のイメージがないのでしょうか。

それは木戸が生涯、刀で人を斬らなかったから(※)だと言われているからです。

諸説ありますが、極めて少なかったようです。

ではなぜ斬らなかったのかというこ、これにもまた諸説あります。

例えば、神道無念流は実践に向かなかったとも言われています。

他にも簡単に刀を抜くなという、師であった斎藤弥九郎(やくろう)の教えを守ったからとも考えられています。

ということで木戸孝允は戦わず、とにかく逃げるということで有名だったそうです。

そのため「 逃げの小五郎 」と呼ばれていたとか。

一見、不名誉な称号ですが、無意味な戦いをしなかったから明治という新時代を切り開くことができたとも言えそうです。

 

きょうのまとめ

最後までご覧いただきましてありがとうございました。

木戸孝允についていかがでしたでしょうか。

木戸孝允とは?

① 吉田松陰を師と仰ぎ、長州藩の尊攘運動をリードした

② 坂本龍馬たちの仲立ちで薩長同盟を結び、倒幕運動を推し進めた

③ 明治新政府でも要職に就き、活躍した

④ 芸者幾松とのロマンスは有名

⑤ 剣術の腕前は確かだったが、刀で人を斬ることはなかったと言われている

その他の記事についても木戸孝允や幕末にまつわる色々な記事を書いています。

よろしければどうぞご覧になってください。

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