新田義貞の家系図を見てたらあの人とも血がつながっていた

 

鎌倉幕府を滅亡させたことで知られる

新田義貞

彼の家系図を眺めてみると、

歴史上でも非常に有名な人物の名前が複数ありました。

そこで今回は、新田義貞と実は血がつながっていた意外な人物たちについて紹介します。

 

新田義貞の家系図

まずは、新田義貞の家系図をみていきましょう。

新田義貞の家系図
新田義貞の家系図

 

新田義貞の家系図に出てくる有名な人物

それでは、新田義貞の家系図を見ていきましょう。

源義家

源義家(みなもとのよしいえ)、すべてはこの人からはじまります。

新田義貞は源義家の孫・義重から数えて8代目。

義重が上野国(現在の群馬県)新田庄に土着したことから、新田姓を名乗り始めたそうです。

 

では、新田義貞の先祖にあたる源義家とは、どのような人物だったのでしょうか。

義家は前九年の役(※1)・後三年の役(※2)で活躍し、八幡太郎とも呼ばれました。

※1 陸奥の豪族・安倍氏の反乱を源頼義・義家親子が平定した戦い(1051~62年)
※2 東北の豪族・清原氏の相続争いに源義家が介入した戦い(1083~87年)

 

後三年の役は朝廷から恩賞が出ませんでした。

そこで義家は、従った者たちに私財を分け与えたと伝えられています。

源頼朝

次は鎌倉幕府を開いた源頼朝です。

頼朝は源義家から数えて4代目。

こう考えると、鎌倉幕府をを開いたのも滅亡させたのも、義家の子孫だったということですね。

鎌倉に幕府ができた理由

さて、頼朝が鎌倉を拠点にした理由として、よく次の二つのことが挙げられます。

地形

西・北・東には山、そして南は海に囲まれた要害(ようがい)の地だからです。

源氏ゆかりの地

前九年の役の帰路、義家の父・源頼義は鎌倉に京都の石清水八幡宮を勧請。

それからおよそ20年後、義家は父の勧請した神社の社を修復しています。

鶴岡八幡宮について

この神社を別の場所に移して鎌倉の町づくりを進めたのが、頼朝でした。

神社は鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)と名を変え、現在でも鎌倉のシンボルとなっています。

 

それからおよそ150年後、新田義貞鎌倉幕府を滅亡させたわけですが、

そのとき北条高時らの首級(しゅきゅう/敵の首のこと)を鶴岡八幡宮で実検したそうです。

鶴岡八幡宮も、色々な歴史を見届けてきたのですね。

首実検: 配下の武士が戦場で討ちとった敵方の首級(くび・しるし)の身元を大将が判定し、
その配下の武士の論功行賞の重要な判定材料とするために行われた作業

足利尊氏

さて、ほぼ同時期に活躍した足利尊氏とも、新田義貞は血がつながっています。

源義家の子・義国の子どもに、新田義重と足利義康がいました。

新田義重は新田義貞につながり、また足利義康は足利尊氏につながるのです。

 

足利尊氏は鎌倉幕府の出先機関であった、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め落としています。

後に室町幕府を開いた人物として、非常に有名ですよね。

 

ですが、もとは足利高氏という名前でした。

高氏の「高」は鎌倉幕府第14代執権・北条高時から一字与えられたもの。

このことからもわかる通り、足利尊氏は鎌倉幕府の有力御家人だったのです。

 

さらに妻・登子も北条氏出身で、鎌倉幕府最後の執権・北条守時は尊氏の義兄にあたります。

登子との間に生まれたのが、後に室町幕府第2代将軍となる足利義詮(よしあきら)です。

滅亡したといわれる北条氏の血も、室町幕府の将軍に流れていたのですね。

 

きょうのまとめ

今回は新田義貞の家系図に出てくる、歴史上の人物について簡単に紹介しました。

① 鎌倉幕府を開いた源頼朝と滅亡させた新田義貞の先祖は源義家

② 室町幕府を開いた足利尊氏とも血がつながっていた

こちらのサイトでは他にも、新田義貞にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 

新田義貞の【完全版まとめ】記事についてはこちらをどうぞ。
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