松平容保も藩主を務めた会津藩の歴史と家系図について

 

幕末、京都守護職として活躍した

会津藩主・松平容保(まつだいら・かたもり)。

彼は貧乏くじを引いたと言われることがあります。

京都守護職を引き受けることによって、会津藩は散々な目に合わされてしまったからです。

そもそも会津藩とはどのような藩なのでしょうか。

そこで今回は、会津藩とその歴代藩主について簡単にご紹介していきたいと思います。

 

松平容保の家系図

まずは、松平容保の家系図をみていきましょう。

どうやら徳川家へのつながりがありそうですね。

家系図

 

会津藩とは

会津藩は、現在の福島県会津若松市を中心とする地域にあった藩です。

江戸時代には全国に約260もの藩が置かれていたそうですよ。

親藩の一つ

ですが会津藩は、そんじょそこらの藩とは違います。

徳川家一門の血を引く親藩(しんぱん)と呼ばれる格の高い藩でした。

後ほど詳しく説明しますが、会津藩の祖は江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の子です。

そして三代目の会津藩主・正容 (まさかた) から、
松平の姓を名乗り始めました。

それから幕末まで、
会津松平家と呼ばれる一族が会津藩を治めてきました。

会津の戦いで敗戦

幕末の会津藩といえば、会津の戦い(会津戦争)が有名です。

会津の戦いは戊辰戦争※の東北最後の戦いで、

白虎隊(びゃっこたい)や娘子軍(じょうしぐん)といった若者や女性たちも戦いに参加しました。

戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは、明治新政府と旧幕府勢力の間で行われた戦争のことです。

鳥羽・伏見の戦い~五稜郭の戦いまで、一連の戦争のことをまとめてこう呼びます。

ですが激戦の末、敗戦。

戦いによってばかりでなく、自刃によって命を落とした人々も多くいました。

その時の悲劇は、百五十年経った今でも語り継がれています。

 

保科正之はどんな人物だった?

会津藩の祖は、保科正之(ほしな・まさゆき)という人物です。

「 保科 」という名前を名乗っていますが、
徳川秀忠の四男として生まれました。

徳川家光の異母弟

なので、3代将軍の家光(秀忠の次男※)とは兄弟の関係に当たります。

秀忠の長男は幼い頃に亡くなっているそうです。

ただし母親は違います。

保科正之は7歳のときに信州・高遠(かたとお)藩保科家の養子となり、21歳で高遠藩の藩主となりました。

そして33歳のとき、会津の領地を与えられます。

家綱の幕政を助ける

さらに家光が没すると、保科正之は4代将軍・家綱を助けるために働きました。

藩のことは重臣たちに任せ、自身は幕政に力を注いでいたそうです。

例えば、末期養子の禁※の緩和や殉死の禁止などを推し進めたのも彼だったと言われています。

また保科正之は、朱子学が非常に好きだった人物としても有名なんですよ。

末期(まつご)養子の禁とは、跡継ぎのない武家が死ぬ直前に養子を迎えることです。

江戸初期にはなかなか認められませんでしたが、その後大幅に緩和されました。

 

家系図には養子が多い

では次に、会津松平家の歴代藩主を見てみましょう。

会津松平家の歴代藩主

(1)保科正之

(2)保科正経(まさつね):正之の四男

(3)松平正容(まさかた):正之の六男

(4)松平容貞(かたさだ):正容の三男

(5)松平容頌(かたのぶ):容貞の長男

(6)松平容住(かたおき):養子の子

(7)松平容衆(かたひろ):容住の次男

(8)松平容敬(かたたか):養子

(9)松平容保(かたもり):養子

こう見てみると、会津松平家の家系には養子が多いことがわかります。

容保も美濃高須藩主・松平義建(よしたつ)の子として生まれているので、会津松平家には養子に入りました。

なお、会津藩の藩校・日新館が創設されたのは、5代目藩主の容頌のときです。

会津藩は教育熱心な藩だったそうで、日本で初めて民間がお金を出して創設した、

庶民のための学問所・稽古堂(けいこどう)が作られています。

こちらには免税にするなど、庶民の間にも学問が奨励されていたといいます。

 

きょうのまとめ

今回は会津藩と歴代の藩主についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

① 親藩・会津藩は幕末、会津戦争で新政府軍に敗れた

② 会津藩の祖・保科正之は第4代将軍・家綱を助けて幕政を行った

③ 会津松平家は養子が多い

といえます。

こちらのサイトでは、他にも江戸時代に関する記事をわかりやすく書いています。

ご興味のある方は、ぜひご覧になってくださいね。

 

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