松平容保が務めた京都守護職とは?本当はなりたくなかった?

 

京都のま「 もり 」は「 かた 」かった。

幕末、会津藩主・松平容保(まつだいら・かたもり)は、
京都守護職に就任しました。

京都守護職と聞くと、おそらくは京都を守っているんだろうということは想像できますよね。

ですが、実際にはどのような職だったのでしょうか。

今回は京都守護職とはどんな職なのか、

そして松平容保が就任するまでについて簡単にご紹介します。

 

京都守護職とは

京都守護職は、1862年に新しく設けられた役職です。

江戸幕府が終焉(しゅうえん)を迎えたのが1867年のことですから、

本当に少しの間しか存在していませんでした。

新設された理由

京都守護職の仕事は、京都の治安維持や二条城の警備などです。

すでに京都所司代や京都町奉行といった、同じ役目を担っている幕府の機関は存在していました。

ですが、当時の京都には尊王攘夷派の過激な志士たちが集まってきていたので、

一層の治安の悪化が心配されていました。

もはや京都所司代などの既存の機関では対応できないかもしれない。

そう考えた幕府側は、京都守護職を新たに置くことにしたのです。

強大な権力を持っていた京都守護職

京都守護職は、京都所司代・京都町奉行・京都見廻役・京都見廻組といった役職を傘下に置き、

さらに正式な部隊ではありませんが、
新撰組も京都守護職の支配下にありました。

他にも大坂城代や近隣の地域の大名たちにも指揮することができるなど、

かなり強い権限を持っていたそうです。

そんな京都守護職という役職も、
1868年の王政復古の大号令によって廃止されることになります。

たった6年間だけ存在したポジションだったということですね。

そのため、この役職に就いていたのは松平容保と、前福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)だけです。

ただし、春嶽が就任していたのはほんの数カ月ですので、

ほぼ松平容保が務めていたと言っていいでしょう。

 

松平容保が京都守護職になるまで

京都守護職は、当時の薩摩藩主の父・島津久光が主導する文久の改革の一環で設けられました。

文久の改革とは、1862年に行われた幕政改革のことです。

このとき、徳川慶喜は将軍後見職に就任しています。

就任要請を断る

すでに会津藩主であった松平容保は、

徳川慶喜や松平春嶽たちから京都守護職就任の要請を何度か受けます。

ですが当時の会津藩の財政は厳しく、

さらに自身は病気を患っていたため、これを断り続けたといいます。

そこで松平春嶽は会津藩の祖、保科正之(ほしな・まさゆき)の遺訓を持ち出します。

保科正之とは江戸幕府第3代将軍・徳川家光の腹違いの弟で、

4代将軍・家綱を助けて幕政を安定させた名君として知られている人物です。

そんな保科正之が残した家訓があります。

大君の義、一心大切に、忠勤を存すべし。

列国の例をもって自らを処るべからず。

もしニ心を懐かば、即ちわが子孫にあらず。

面々決して従うべからず。

どんな理由があっても、徳川家への忠義を尽くしなさい、という意味です。

春嶽はこの言葉を用いて、容保の説得に当たりました。

遺訓を持ち出され・・・

断ることができなくなった容保は、ついに要請を受け入れます。

なんだか、かわいそうに思えます。

もちろん家老たちも反対したそうですが、

容保は京で死ぬ覚悟をした上で、京都守護職に就任したといいます。

どうやら、容保就任の裏には壮絶な背景があったようです。

なお、容保が京都守護職に就任した2年後、

実の弟である松平定敬(さだあき)が京都所司代に任命されています。

兄弟で京都の治安を守っていたのですね。

 

きょうのまとめ

今回は松平容保が務めた、京都守護職という役職についてご紹介しました。

① 京都守護職は幕末に新設された役職だった

② 新撰組も京都守護職の支配下にあった

③ 松平容保は京都守護職への就任を断っていたが、松平春嶽に説得された

④ 実の弟とともに京都の治安維持に務めた

といえます。

こちらのサイトでは、他にも幕末に関する記事をわかりやすく書いています。

ご興味のある方は、ぜひご覧になってくださいね。

 

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