勝海舟はどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

勝海舟とはどんな人物だったのでしょうか。

幕末の人だよね、名前は知っているけど詳しくは・・・というそこのあなた!

ぜひ勝海舟のかっこいい生き様は、
知っておいていただきたいです。

そこで今回は、
勝海舟はどんな人物だったのか簡単にご紹介します。

 

勝海舟はどんな人?

  • 出身地: 江戸・本所(現在の東京都墨田区)
  • 生年月日: 1823年3月12日
  • 死亡年月日: 1899年1月19日(享年77歳)
  • 幕末の幕臣。蒸気船「咸臨丸(かんりんまる)」で日本人で初めて太平洋を横断、江戸無血開城を成し遂げた人物として有名。

 

勝海舟 年表

年表
西暦(年齢)

1823年(1歳)江戸に生まれる(幼名・通称は麟太郎/りんたろう)。

1850年(28歳)蘭学塾を開く。

1860年(38歳)咸臨丸を操縦して太平洋を横断する。

1864年(42歳)神戸海軍操練所を開設する。

1868年(46歳)江戸無血開城。徳川家達(いえさと)が静岡70万石に封ぜられる。

1872年(50歳)海軍大輔に就任する。

1873年(50歳)参議兼海軍卿に就任する(翌年8月に辞任)。

1877年(55歳)伯爵を授けられ、華族となる。

1892年(70歳)慶喜の子を養子とする。

1899年(77歳)死去

 

幕臣でありながら明治維新でも名を残す

勝海舟は、
幕臣の旗本という身分の家に生まれました。

しかし、
幼い頃の海舟の家は、
大変貧しかったといいます。

なぜなら父の小吉は、
一言でいうと「ろくでなし」の男だったからです。

たいへん素行が悪く、
一生無役で終わりました。

下記の記事では一応、
小吉のフォローをさせてもらっています。

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若い頃の海舟は父親とは逆の生き方を選び、
剣術に励んだり、蘭学を学んだりしていました。

しかし、相変わらずお金には苦労していたようです。

そんな海舟の転機は、

日本の大転換期でもあった黒船の来航でした。

この前代未聞の大事件を目の当たりにした幕府は、
身分にかかわらず海防に対する意見を広く募集したのです。

そこで提出した意見書が
当時の老中首座・阿部正弘(あべ・まさひろ)に認められ、
出世への足掛かりとなりました。

その後、
江戸幕府が設立した長崎海軍伝習所の一期生に加わり、
蒸気船の操業技術を学びます。

そして日米修好通商条約を批准(ひじゅん)する幕臣たちを乗せた船

「咸臨丸」を操縦し太平洋を横断しました。

これは日本人初の偉業です。

帰国後は幕府内の重要なポストにつき、
幕臣ながら明治維新において重要な登場人物となるのでした。

勝海舟は大政奉還が行われた後も、
新政府と徳川家を取り持つ役目をしています。

というのも、新政府は政権を握ったものの、
まだそれをうまく運営できる力はありませんでした。

そこで海舟は、
渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)や西周(にし・あまね)など、
旧幕臣の優秀な人材を新政府に推薦していたのです。

さらに海舟自身も、
海軍大輔(海軍のトップ)や参議と海軍卿を兼務したりと、
明治新政府内でも重要な役割を任されます。

ですが徳川家に対する忠誠心も消えたわけではなく、
自身の嫡男が急逝した折には、
徳川慶喜の十男・精(くわし)を養子に迎え、勝家を継がせました。

そして77歳となった海舟はお風呂から出たところで倒れ、

「これでおしまい」

という最期の言葉を残してこの世を去ったのです。

 

勝海舟にまつわるエピソードや伝説

それでは、
勝海舟にまつわる具体的なエピソードをご紹介しますね。

勝海舟は江戸城の返還を狙っていた?

勝海舟といえば、
江戸無血開城の立役者として知られています。

1868年に行われた、
新政府側の西郷隆盛との会談が有名です。

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当時の江戸は、
世界的に見ても人口が多く密集している地域でした。

そんな江戸が戦火に包まれたら、
多くの人びとが命を落としていたはずです。

しかし勝海舟と西郷隆盛は、
それを選びませんでした。

現在でも美談として語られるエピソードですが、
勝海舟は「江戸の人びとを守るために」無血開城をしたのでしょうか。

それにはいくつかの考えが、
勝海舟にはあったようです。

まずは、徳川慶喜からの指示でした。

いわゆる上司からの命令なので、
いたってシンプルな理由ですね。

また内乱に乗じて、
諸外国が介入してくることを防ごうともしていたと考えられます。

当時、外国の植民地にされていた清やインドのようになることは避けたかったということです。

さらには無血開城することによって、
新政府側から徳川家にとって有利な条件を引き出そうとしたそうです。

有利な条件とは、徳川家の所領の現状維持です。

それだけではなく、
一旦新政府側に引き渡した江戸城を再び返してもらうことを狙っていたようです。

結局、その願いは叶いませんでしたが、
交渉相手の西郷隆盛はかなり苦しい立場に追い込まれていたそうです。

旧徳川家臣をリストラする立場に

1868年、
徳川家に対して処分が下されました。

それまで400万石もあった所領(旗本の分も合わせると800万石とも)が駿河・遠江の70万石に減らされるものでした。

江戸城返還まで目論んでいた海舟でしたが、
そのときは徳川家の家臣たちから相当恨まれたようです。

ただ、慶喜の命は助かりました。

慶喜の跡を継いだ亀之助(のちの家達。いえさと)は静岡城へと移ります。

これだけ所領が減るとなると、当然養える家臣の数も激減します。

そこで勝海舟は、
少なくとも2万人以上の家臣たちをリストラせざるを得なくなりました。

家臣たちに対して、

(1)新政府に出仕する

(2)農業や商業を始める

(3)無給を覚悟して静岡に移住する

という3つの道を選ばせることにしたのです。

しかし徳川家を去ったのは、
結局1万人にとどまりました。

無給でもいいから徳川家に仕えようとする精神は素晴らしいのですが、
実際の生活は悲惨なものでした。

家臣の家族全員が餓死するようなこともあったそうです。

そこで海舟は、自腹を切って家臣たちの生活を支えました。

その資金は、
自身の息子・小鹿(ころく)の海外留学のために積み立てておいたお金だったそうです。

それを見た徳川家も密かにお金を海舟に渡し、
家臣たちの生活費に回していたようです。

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きょうのまとめ

勝海舟はどんな人物だったのか簡単にご紹介しましたが、

いかがでしたでしょうか。

勝海舟は、

① 若い頃は貧しかったが、黒船来航をきっかけに出世をした

② 明治維新の立役者の一人でもあり、新政府にも出仕した

③ 晩年まで徳川家のことも思い続けた

人物と言えるのではないでしょうか。

時に恨まれたりもしましたが、
新しい国の姿を見据えて行動したその姿には、本当に頭が下がりますよね。

勝海舟や幕末に活躍した人々について、
他にもたくさんの記事を書いています。

こちらの記事で興味が湧いた方は、ぜひご覧になってくださいね!

 










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