松平容保と新撰組はどういう関係だった?池田屋事件で運良く逃げ出せたあの人

 

今回は、京都守護職を務めた松平容保と新撰組の関係について取り上げます。

新撰組はどのような経緯で結成され、

松平容保とつながりを持ったのでしょうか。

 

松平容保と新撰組は上司と部下

文久2年(1862年)12月、
江戸幕府は将軍家茂が上洛(じょうらく)する際の警護を行う浪士たちを募集しました。

そこへ集まって来たのが、
後の新撰組メンバー・近藤勇(こんどう・いさみ)や土方歳三(ひじかた・としぞう)たちでした。

このとき集まった浪士たちのことを、浪士組といいます。

新撰組はどうやって結成されたのか

浪士組の募集は、
出羽庄内出身の浪士・清河八郎(きよかわ・はちろう)の申し立てによって実現したものでした。

しかし、京都に着いた彼らに清河八郎は、
集められた本当の目的は攘夷の先鋒となることだと伝えました。

つまり、将軍の警護というのはウソだったのです。

これを知った幕府は当然激怒し、浪士たちを江戸に呼び戻そうとしました。

しかし、本来の目的を果たすために京に残りたいと申し出たグループがいました。

彼らこそが、後に新撰組となる人々です。

京都守護職預かりに

京都への残留を主張した彼らは、清河八郎と対立。

そして幕府から禄位(給与や官位)がもらえなくてもいいからと、

浪士組を取り締まる立場にあった幕臣、鵜殿鳩翁(うどの・きゅうおう)へ残留を願い出ました。

すると鵜殿は、このことを松平容保へと伝えたのです。

これを聞き喜んだ容保は、
残留を決めた彼らを”京都守護職預かり”としました。

すなわち、京都守護職の指揮下に置かれたということです。

新撰組の前身となる、
壬生浪士組(みぶろうしぐみ)が誕生しました。

あくまでも非公式な組織ではありましたが、容保は新撰組の上司だったわけです。

 

池田屋事件とは

新撰組は松平容保の下で、
京の尊王志士たちの取り締まりなどを行いました。

そして、新撰組の名を有名にしたのが池田屋事件(1864年)です。

尊攘派は京都への放火を計画していた!?

池田屋とは京都・三条にあった旅館で、
新撰組はそこに潜伏していた尊王攘夷派の志士たちを襲撃しました。

この事件のきっかけとなったのは、
古高俊太郎(ふるたか・しゅんたろう)という人物を、新選組が捕らえたことでした。

尊王攘夷派の志士だった古高は拷問にかけられ、
京都放火や松平容保らの暗殺、天皇の連れ去り計画などを自白※したと言われています。

自白内容に関しては、新選組のでっちあげだという説もあります。

そして新撰組は、尊攘派たちによる古高を救うための会合が池田屋で開かれるかもしれない、という情報をキャッチしていました。

20数名の尊攘派志士たちに対して新選組は数名で突入、その結果9名を討ち取り4名を捕縛したといいます。

この池田屋事件で攘夷派は逸材を失い、
明治維新が一年遅れたとも言われているそうですよ。

逆に尊攘派を刺激したため、早まったという見方もあるそうですが・・・・・・。

ラッキーだった木戸孝允

なんと、この会合に出席する予定がありながら、事件に遭遇しなかったというラッキーな人物がいました。

後の木戸孝允こと、桂小五郎です。

当日、池田屋に少し早く着いてしまったため、
一旦店を出ていたので難を逃れたというのが通説です。

他にも、運良く逃げ出せたという説もあるようです。

仮にここで桂小五郎が命を落としていたら、
日本の歴史も少し変わっていたかもしれません。

ちなみに、池田屋の跡地は今現在、居酒屋となっています(2018年1月現在)。

私も実際に行ったことがあるのですが、新撰組にちなんだメニューなどもありました。

内装もこだわっているので、
新撰組ファンの方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。

 

きょうのまとめ

今回は松平容保と新撰組の関係などについてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

① 新撰組は松平容保の指揮下で、京都で尊王攘夷派の志士の取り締まりなどを行っていた

② 池田屋事件で新撰組の存在は知られるようになった

といえます。

こちらのサイトでは、他にも幕末に関する記事をわかりやすく書いています。

ご興味のある方は、ぜひご覧になってくださいね。

 

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