楠木正成とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

後醍醐天皇

 

1331年の鎌倉幕府倒幕計画(元弘の変)に呼応して挙兵してから、命が尽きるまで後醍醐天皇ごだいごてんのうに尽くした

楠木正成くすのきまさしげ

一体どんな人物だったのでしょうか。

 

楠木正成はどんな人?

プロフィール
楠木正成

楠木正成
出典:Wikipedia

  • 出身地:未詳。河内国赤坂水分かわちこくあかさかすいぶん(大阪府千早赤阪村)説あり
  • 生年月日:未詳。1294年説あり
  • 死亡年月日:1336年7月4日(享年43歳 *生年1294年説採用の場合)
  • 死ぬまで後醍醐天皇に忠義を尽くし、武勇と知略で鮮やかな戦いを繰り広げた河内国の元悪党・豪族とも言われる武将

 

楠木正成年表

年表

西暦(年齢)(*生年1294年説を採用)

1294年(1歳)誕生

1322年(29歳)北条高時の命により摂津国の渡辺党、紀伊国湯浅氏、南大和の越智おち氏を討つ

1331年(38歳)後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の挙兵(元弘の乱)に呼応して挙兵(赤坂城の戦い)

1332年(39歳)赤坂城を奪還

1333年(40歳)千早城の戦い。鎌倉幕府が倒れる

1334年(41歳)後醍醐天皇による建武の新政

1335年(42歳)足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻す

1336年(43歳)湊川みなとがわの戦いにて敗戦。自刃

 

楠木正成の生涯

楠木正成は名の知られた武将ですが、彼の出自・生い立ちについては不明な点が多々あります。

正成の出自

1294年河内国赤坂水分(大阪府千早赤阪村ちはやあかさかむら)に生まれたとされる説が有力だとみられていますが、まだ史実として確定されてはいません

彼の出自については、

・土豪(土地の有力豪族)説

・悪党(反体制勢力)説

・御家人(鎌倉幕府に仕える武士)説

など未だに研究者によって見解が分れています。

後醍醐天皇の忠臣である正成が、元は鎌倉幕府の御家人だったとは信じられませんか?

でも、可能性はゼロではありません。

・鎌倉幕府倒幕に活躍した足利尊氏あしかがたかうじ新田義貞にったよしさだも、仕えていた幕府を裏切っていること

・中世、特に畿内の武士たちは幕府の御家人と兼業で天皇や公家のために動き、商売に関わることがあった

・御家人であろうとも、ひとたび問題を起こせば「悪党」と呼ばれることもあった

このような事実から、楠木正成は多面性のある存在つまり、土豪、悪党、御家人いずれか、もしくは全てだった可能性があります。

後醍醐天皇による倒幕計画と赤坂城の戦い

1331年、正成は後醍醐天皇による倒幕計画元弘の変に合わせて赤坂城にて挙兵。

北条高時の軍勢数十万人(『太平記』では30万人)に対して、たったの500人ですが、正成軍は、籠城しながらの奇襲戦法で圧倒的な兵力差のある幕府軍に好戦しました。

主君・後醍醐天皇は笠置山かさぎやまで幕府軍に捕らえられますが、正成は逃亡してきた護良親王もりよししんのうを擁護して戦います。

幕府軍による兵糧攻めが開始されると、正成は赤坂城を炎上させて城を放棄。

焼死したと見せかけた正成は、護良親王と共に大軍に囲まれた城から落ち延びることに成功しました。

翌年には幕府に占領された赤坂城の奪還にも成功しています。

鎌倉幕府倒幕の気運を盛り上げた正成軍

【天王寺の戦い】

1332年、赤坂城を取り戻して勢いを持った正成軍は、和泉いずみ、河内を制圧。

幕府は武勇で知られる宇都宮公綱うつのみやきんつなを天王寺に差し向けます。

宇都宮軍よりも数で勝る正成軍でしたが、猛者揃いの宇都宮軍との直接対決を避ける代わりに心理作戦を展開。

夜間に大量のかがり火を焚いて大軍を装い、宇都宮軍にプレッシャーを与え続けた結果、戦わずに彼らを天王寺から撤退させました。

【千早城の戦い】

1333年に幕府の北条高時は、またもや数万から10数万と言われる正成討伐軍を差し向けます。

金剛山こんごうさんに要塞の城を築いて迎え討った正成軍は、奇策を自由自在に操って幕府軍を苦しめます。

攻めあぐねた幕府は、兵糧攻めを実行しますが、地元民との強い連携体制を取っていた正成軍は兵糧に困りません。

大軍だった幕府軍の兵士のほうがかえって飢えに苦しみ、ついに撤退しました。

一人の武将・楠木正成が幕府の大軍を振り回す戦いぶりに、諸国の武士たちが目を覚まします。

足利尊氏や新田義貞などを先頭に幕府に不満を持った武士たちが立ち上がり、ついに鎌倉幕府を倒しました。

建武の新政、湊川の戦いと正成の最期

1333年、京へ凱旋して政権を握った後醍醐天皇は、「建武の新政」を開始します。

しかし、貴族を優遇する新政に武士たちは不満でした。

やがて足利尊氏は、武家政権の復活を目指して後醍醐天皇に反旗を翻したのです。

朝廷は反逆者・尊氏の討伐に新田義貞を送りますが、失敗。

京へ迫る尊氏軍に対し、1336年楠木正成が北畠顕家きたばたけあきいえ、新田義貞と連携して戦い、正成はまたしても策略や奇襲を駆使して尊氏を京から追い出すことに成功しました。

【湊川の戦い】

正成は手ごわい尊氏の実力を高く評価していました。

1336年、九州で体制を整えた尊氏が再度大軍を従えて京へと向かってきた時、正成は足利軍との和睦を主張しました。

先の戦に勝った後醍醐天皇は和睦など認めません。

結局、新田義貞と楠木正成が手を組んでそれを迎え撃つこととなりました。

決死の覚悟で兵庫へ向かって出陣した正成は、桜井の駅(大阪府三島郡島本町桜井)で、息子の正行と決別したあと「湊川の戦い」に挑みます。

しかし、正成の予想通り正成軍は戦いに敗れ、共に戦った楠木正成と弟の楠木正季は互いに差し違えて自害しました。

 

楠木正成と足利尊氏の関係

一度は鎌倉幕府打倒という共通の思いで、後醍醐天皇方について戦った楠木正成と足利尊氏

しかし建武の新政後に、武家政権を打ち立てようとした足利尊氏とあくまで後醍醐天皇に尽くそうとした楠木正成は敵味方に分れました。

足利尊氏は、もともと清和源氏の血統を持つ上流の武士です。

一方、河内国の土豪、悪党だと考えられる階級の楠木正成は、ずっと身分も下でした。

鎌倉幕府打倒の際にも、戦線を組んで共に戦ったわけではありません。

2人に個人的な繋がりはなかったようです。

しかし、彼らはお互いに有能な武将として認め合っていました。

楠木正成は、

・武士たちからの絶大なる支持を受けていた尊氏の徳と武勇を高く評価していた

・湊川の戦いの前には、彼は人望と統率力のある尊氏と和睦をして共に世を作っていくべきだと後醍醐天皇に提言していた

足利尊氏は、

・楠木正成の後醍醐天皇への忠誠心、優れた戦略家であり勇気ある武将としての実力に敬意を払っていた

・正成の死を惜しみ、特別の配慮で敗戦後京の六条河原に晒された正成の首を故郷の親族へ丁重に送り届けた

2人は優秀な武将だったからこそお互いに敵将の凄さも理解していたのです。

楠木正成の強さは神話や伝説ではありません。

『梅松論』という足利尊氏側の記録には、敵である正成の死について尊敬を持って以下のように記されています。

誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける

 

楠木正成の墓所・観心寺

秘仏である国法・如意輪観音像で知られる高野山の観心寺は、楠木家代々の菩提寺です。

701年、修験道しゅげんどうの開祖と言われる役小角えんのおづのによって開かれ、初め雲心寺と呼ばれていました。

1336年の湊川の戦い後、足利尊氏の命により送り届けられた正成の首級は、ここに葬られ首塚として祀られています。

明治維新後、全国で楠木正成を顕彰する気運が高まりました。

その際に正成最期の地である神戸の湊川では、明治天皇の命により神社が創建されましたが、同時に観心寺の山門脇に「楠木正成銅像」が建てられました。

<大楠公首塚 高野山真言宗遺跡本山 檜尾山観心寺:大阪府河内長野市寺元475>

 

きょうのまとめ

今回は楠木正成の生涯や足利尊氏との関係についてご紹介させていただきました。

楠木正成とは、

① 出自は明確でないが、河内国エリアの実力者と考えられる人物

② 数々の戦いで鮮やかな戦いぶりを見せた武勇と知略の武将

③ 進言を聞き入れられず、不利な状況を知りつつも後醍醐天皇のために最後まで力を尽くして戦った忠義の人

④ 最後は敵同士として戦った足利尊氏とはお互いに実力を認め合う仲

でした。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku