仲間?子弟?ライバル?空海と最澄のフクザツな関係

 

平安時代、唐へ行って学んできた仏教を日本で広めたエライお坊さんが、

空海くうかい最澄

空海は真言宗、最澄は天台宗を広めました・・・

ということで、なんとなく私たちがワンセットにしている二人の高僧。

彼らの境遇を追いかけながら、比較してみます。

 

空海と最澄の活躍

空海くうかい

空海の肖像(真如様大師)
出典:Wikipedia

794年、平安京へ遷都した桓武天皇は政治と仏教とを分離することを決めました。

それまで仏教と政治がずぶずぶの関係になっていて、僧は政治に口を出し、貴族たちは脱税のために寺院を利用し、国は混乱していたのです。

平城京に残してきた寺院とは別に、桓武天皇はフレッシュで優秀な僧を求めていました。

唐へ行く二人

やがて桓武天皇は比叡山で12年間修行をしていた優秀な僧・最澄を見つけ出し、

804年、彼が目指す天台宗を極める為に唐へ送り出します。

実は、天皇の命により唐へ向かう期待の星・38歳の最澄の旅の一行の中に、私費で参加している学僧の空海31歳もいたのです。

公費留学の最澄には、桓武天皇が待つ平安京に早く戻る義務があります。

天台宗の奥義をマスターしたあと、密教の習得は不完全なまま彼は仕方なく1年で帰国。

一方空海は唐で大活躍

難解なサンスクリット語をすぐにマスターし、当時最先端の密教をたった2年で習得して帰国。

日本はすでに密教中心の世の中になりつつありました。

桓武天皇から交代した嵯峨天皇は、密教をマスターした空海に国の仏教を任せます。

空海の真言宗は、エリート僧・最澄の天台宗に並んだのです。

尊敬しあう師弟であり仲間の二人

最澄は、とても真面目な僧でした。

密教、禅宗、戒律、そして円満完全な天台の教えをうまくミックスさせた最澄の天台宗は

「誰でも悟りを開ける」

という先進の思想でしたが、弱点は唐できちんと習得出来なかった密教。

そこで彼はプライドを捨て、密教を学ぶため7つ年下で格下僧侶の空海の弟子となります。

元来努力型の秀才であった最澄の、真摯に密教を学ぶ姿に感銘を受けた空海。

二人は師弟関係にありながら、尊敬し合う仲間となりました。

空海の幸運・最澄の苦難

空海は嵯峨天皇のお気に入り。

816年、空海は天皇から真言宗のため高野山を、823年、平安京にある東寺を賜り、遂に平安京の中にまで真言宗の寺院を持つに至りました。

空海は人と接するのが上手く、土木工事、庶民が学べる綜芸種智院設立など人々に感謝される活動をしながら、市井の中で教えを広めます。

その頃、全ての僧を目指す者は、奈良・東大寺の戒壇で戒律を受けなければ正式な僧になれませんでした。

空海は教えの違う奈良仏教ともよい関係を築き、東大寺に真言宗専用の戒壇を設けることに成功。

真言宗は僧を輩出できるようになりました。

最澄の立場は空海とは正反対

彼は比叡山にこもり、修行を積み重ね、弟子を育てることで人々の役に立つ天台宗を広めようとしますが、その姿は人々の目に触れることはありません。

さらに生真面目な最澄は、奈良の戒壇制度に真っ向から対立。

桓武天皇が亡くなり、後ろ盾のないまま比叡山に別の戒壇を設けようとしますが、奈良仏教界からの反対で、実現しません。

天台宗の学僧は正式な僧になれない状態となり、最澄の弟子の中には天台宗に見切りをつけ、戒壇がある奈良仏教へ移る者も出てくる有様でした。

二人の仲違い、最澄の死

あるとき最澄が、空海から経典を借りようとして拒絶されます。

それが原因で二人は絶縁状態になりました。

天台宗に取り入れるべき密教ですが、唐で密教を習得できなかった最澄は、空海に頼るしかなかったのです。

でも、空海にすれば、密教とは書物を読んでマスターできるものではなく、弟子として修行を積んで体得すべきもの。

それで怒ったわけです。

でも、最澄は、奈良仏教との論争のため、修行で体得しているヒマなどありません。

ついには彼の一番弟子が空海の弟子になる悲劇まで起きてしまいました。

最澄はこれを嘆き悲しみ、戻るよう懇願しますが、無駄に終わります。

そんな苦しい状況の中、ついに最澄は亡くなってしまったのでした。

このままだと、あまりにも気の毒な最澄ですが、実は、彼の死からたった7日後にどんでん返しがありました。

天台宗の総本山である比叡山に戒壇が設立されたのです。

背景には、最澄を支援する藤原冬嗣ふゆつぐと言う強力な藤原氏の力添えがありました。

 

空海と最澄の違い

二人の偉大な高僧ですが、現在私たちがよく聞く名前は最澄よりも空海(弘法大師)のような気がします。

これは気のせいなんでしょうか?

性格と宗派の違い

最澄は繊細な神経の持主であり、理知的な努力家の秀才

人間の煩悩や苦悩を直視する純粋で真面目な人間でした。

真面目すぎて清濁併せのむ、ということができないタイプだったのかも。

天台宗の「誰でも悟りを開ける」という思想は、その後、貴族から農民まで幅広い人々の信仰を集めます。

これこそ平安後期に広がる浄土信仰の礎です。

彼が開いた比叡山延暦寺は、まるで仏教の総合大学。

弟子を教育することに重点を置いた結果、

・浄土宗(法然)

・浄土真宗(親鸞)

・臨済宗(栄西)

・曹洞宗(道元)

というスーパースターたちは皆比叡山から誕生しました。

失意のうちに亡くなった最澄の影響力は、実は強大なものでした。

 

空海は、多くの人を惹きつける豪快明朗な天才肌の人物。

名前の通り空のように海のようにおおらかな心を持っていました。

目的のためには、小さなことに目くじらをたてたりしません。

人のいる場所へどんどん出て教えを広めるスタイルは、庶民に愛されました。

そのスタイルの中からカリスマ性が生まれ、自らが信仰の対象となっていきます。

現在でも「お大師さま」といって拝む対象は、弘法大師、つまり空海のことです。

おそらく、私たちの身近に多く見つけられる弘法大師関連の寺院や逸話が、彼の知名度に影響しているのでしょう。

 

きょうのまとめ

天才肌で自らがカリスマとなった空海、努力を重ね多くの弟子を育てた最澄。

アプローチの違う二人。

しかし彼らは、特権階級の物だった仏教を、

広く民衆に広めることに成功した偉大なる功労者たちでした。

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歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku