親鸞とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

浄土真宗を開いたことで知られる親鸞ですが、

彼はどんな人物だったのでしょうか。

そこで今回は、親鸞の生涯と衝撃の事実について簡単に紹介していきます。

 

親鸞はどんな人?

プロフィール
 

  • 出身地: 京・日野(現在の京都市)
  • 生年月日: 1173年
  • 死亡年月日: 1262年11月28日(享年 90歳)
  • 浄土真宗の開祖。悪人正機説を説く。法然の弟子。

親鸞 年表

年表

西暦(年齢)

1173年(1歳)京都・日野に生まれる。(幼名、松若磨など)

1181年(9歳)出家。比叡山で修行を始める。

1201年(29歳)比叡山を下り、京都・六角堂に参籠。法然に師事する。

1207年(35歳)越後国に流罪となる。還俗・妻帯。

1211年(39歳)赦免。東国で布教。

1212年(40歳)法然入滅。

1235年(63歳)京都で布教。

1262年(90歳)入滅。

 

親鸞の生涯簡単まとめ

親鸞は貴族・日野有範(ありのり)の子として生まれました。

幼名は松若磨や松若丸など、諸説あります。

なお親鸞に関する現存する資料は少ないため、

以下は一説によると……くらいの感覚でお読みいただけると幸いです。

比叡山で修行

幼くして母親を亡くした親鸞は、9歳にして仏門に入ることになりました。

青蓮院(しょうれんいん)の慈円(じえん)のもとで出家し、

その後は比叡山で20年間、修行を行っています。

ですが悟りを得ることができず、比叡山を下ります。

法然に師事

そして京都の六角堂に参籠したのをきっかけに、浄土宗の開祖・法然(ほうねん)に帰依。

法然からも高い評価を得るようになります。

しかし旧仏教勢力からの迫害を受け、法然をはじめ、親鸞も流罪となりました。

越後に配流・東国で布教

越後国に流された親鸞。

強制的に還俗させられ、結婚もしています。

それから四年後、親鸞は赦免となります。

 

しかし京都へは戻らず、東国を中心に布教活動を行いました。

有名な『教行信証(きょうぎょうしんしょ)』(浄土真宗の聖典のこと)を著したのも、関東にいた頃です。

 

60歳を過ぎた親鸞は、京都へ戻ります。

その後は著作活動や弟子の指導などに力を入れ、享年90歳で入滅しました。

 

親鸞にまつわるエピソードや伝説

ここでは親鸞にまつわるエピソードを紹介していきます。

奥さんと子どもがいた

上記でも少し触れましたが、親鸞は結婚していました。

結婚したタイミングは諸説ありますが、今回は越後に流された後とします。

 

相手は越後の豪族・三善氏の娘とされる、恵信尼(えしんに)です。

二人の間には3男3女の子どもも生まれています。

他にも、4男3女という説や、全員が恵信尼の子ではないという説もあります。さらに恵信尼は関白・九条兼実の娘という説もあり、謎が多いのも事実です。

 

さらに恵信尼は、親鸞が東国で布教する際も一緒に赴きます。

そして晩年は、一人で越後に戻ったといわれています。

親鸞は浄土真宗を開いていない

親鸞は浄土真宗の開祖として紹介しましたが、実は違います。

「浄土真宗」と名付けられたのは親鸞が亡くなった後のこと。

そもそも、親鸞には新しい宗派をつくる意志はなかったといわれています。

 

そんな親鸞を浄土真宗の開祖としたのは、ひ孫の覚如(かくにょ)でした。

これには親鸞本人もびっくりでしょうね。

親鸞実在しない説!?

ということで、親鸞について色々紹介してきました。

ですが、実は親鸞はいなかった! と言われたら驚きですよね。

 

なんと明治時代、学者たちの間で親鸞は実在しない、と考えられた時期がありました。

あまりにも親鸞に関する資料が少なかったことが、その原因とされています。

しかし大正時代になると、妻・恵信尼が娘に宛てた手紙などが見つかり、

親鸞の実在が証明されました。

あー、良かった。

 

きょうのまとめ

今回は浄土真宗の開祖・親鸞について紹介しました。

親鸞とは?

① 比叡山で修行するも悟りを得られず、法然の弟子になった

② 恵信尼という女性と結婚して、子どもをもうけていた

③ 実は浄土真宗を開いたわけではなかった

こちらのサイトでは他にも、鎌倉仏教にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 










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