道元とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

近年では、アップル社のスティーブ・ジョブズなども実践していたことで知られている「禅」。

マインドフルネス、瞑想という言葉のほうが一般的でしょうか?

その「禅」というものを日本で最初に広めたのが、

曹洞宗そうとうしゅうの開祖・道元どうげんです。

その著書『正法眼蔵しょうぼうがんぞう』には、ジョブズも影響を受けていたといいますよ。

開宗から800年経った今となって、その教えが色あせるどころか、さらに注目されているのってすごいことですよね!

時代が変わっても、大事なことはかわらないということでしょうか。

となると、道元がどんな教えを説いたのか、いかにしてその教えに辿り着いたのかがとっても気になるところ。

道元とはいったいどんな人物だったのか、今回はその生涯を辿ってみましょう。

 

道元はどんな人?

プロフィール
道元どうげん

道元
出典:Wikipedia

  • 出身地:山城国乙訓郡久我村やましろのくにおとくにぐんくがむら(現・京都市伏見区)
  • 生年月日:1200年1月2日
  • 死亡年月日:1253年9月22日(享年53歳)
  • 日本の曹洞宗の開祖。そう(中国)での修行を経て、禅の思想を初めて日本に持ち帰った。

 

道元 年表

年表

西暦(年齢)

1200年(1歳)京都にて上級貴族の家系に生まれる。

1203年(3歳)父が亡くなる。

1208年(8歳)母が亡くなり、関白・藤原基房ふじわらもとふさの養子となる。

1214年(14歳)比叡山にて、天台座主てんだいざす・公円のもとに出家。

1215年(15歳)比叡山を下山。園城寺おんじょうじ(三井寺)の僧・公胤こういんに師事する。

1217年(17歳)京都市東山区の建仁寺の僧・明全みょうぜんに師事。

1223年(24歳)師・明全とともに宋(中国)へ渡る。

1225年(25歳)天童山景徳寺にて、如浄にょじょう禅師に師事。悟りの境地に至り、免許皆伝の印を授かる。

1227年(27歳)帰国し、禅の思想を広めるため『普勧座禅儀ふかんざぜんぎ』を著す。

1233年(33歳)京都深草にて興聖寺を創建。武家を中心に思想を広めていく。『正法眼蔵しょうぼうがんぞう』の執筆を開始。

1243年(43歳)越前(福井県)の地頭・波多野義重はたのよししげの引き立てにより、越前に拠点を移す。翌年、大仏寺(のちに永平寺に改名)を創建。

1248年(48歳)執権・北条時頼に招かれ鎌倉へ下向。関東地方に教えを広める。

1253年(53歳)永平寺を弟子・弧雲懐奘こうんえじょうに譲り、京都にて没する。

 

道元の生涯

ここからは道元の生涯について、詳しいエピソードを辿っていきましょう!

幼少期・父母の死により世の無常を知る

1200年1月2日、道元は山城国久我村やましろのくにくがむら(現・京都市伏見区)にて、上級貴族の家系に生まれます。

父母に関しては諸説あるのですが、一説に父は第62代村上天皇の子孫にあたる久我通親くがみちちか、もしくはその子通具みちとも

母は朝廷のまとめ役にあたる関白・藤原基房ふじわらもとふさの娘だという説が有力です。

いずれにしてもこの上なく高貴な家柄であることは確実でしょう。

ただ…

そんな恵まれているはずの幼少期において道元は

「形あるものはいずれ壊れてしまう」

という、世の無常を痛感させられることになります。

そう、父は道元が3歳のころ、母は8歳のころにそれぞれ亡くなってしまうのです。

これにより道元は母方の祖父である藤原基房の養子に。

基房は我が子となった道元に、将来は朝廷の官職に就いてほしいと願っていました。

しかしこのとき、道元の心にはすでに、出家して僧となる意志が芽生えていたのです。

幼き道元にとっては、約束された将来の地位を願うより、悟りを開き、両親を失った苦しみから解き放たれたい想いのほうが強かったのかもしれません。

幼くして中国唐時代の書物・インドの仏教入門書を理解していた?

道元は高貴な家柄の生まれというだけでなく、非常に聡明な少年であったといいます。

・4歳のころに中国唐時代の詩人李経りきょうの詩集を読んでいた

・7歳のころに中国春秋時代の歴史解説書『春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん』、中国最古の詩集『毛詩もうし』を読んでいた

・9歳のころにインドの仏教入門書『俱舎論くしゃろん』を読破、理解していた

などなど、逸話がいくつも残されています。

特に俱舎論に関しては、常人が理解するには8年を要するという難書です。

もはや聡明とかそんなレベルの話ではないような…。

両親を失い、救いを求める心がその理解を助けたのかも?

比叡山への出家・修行への疑念

このようにして、悟りへの想いを強めていった道元は14歳のころ、比叡山延暦寺の千光房にて、天台座主てんだいざす・公円のもとへ出家します。

(※座主…その宗派を代表する高僧のこと)

ここでは当時のスタンダードであった天台宗を学ぶのですが、その生活のなかで道元の胸中に生まれたのは、悟りではなく、修行に対するある疑念でした。

道元
私欲や雑念があっては、悟りの境地には至れないはず。

でも周りの僧たちはみんな有名な高僧になって地位を得るために修行をしている…。

それって思いっきり私欲だよね?矛盾してない?

道元
天台宗の教えには『本来本法性ほんらいほっぽうじょう天然自性身てんねんじしょうしん(人は生まれながらに仏性をもっており、ありのままで仏である)』というものがあるけど、

もとから仏なら、なんのために修行するの?

このふたつの疑念から、道元は出家して1年あまりで比叡山を下山

その答えを求め、高僧と呼ばれるあらゆる人物を訪ねて回るのです。

明全和尚との出会い

比叡山を下りた道元が最初に訪ねたのは、同じく近江(現・滋賀県)にある天台宗の総本山・園城寺おんじょうじ(三井寺)の公胤こういんという僧でした。

道元はここで引き続き天台宗の教えを受けながら、比叡山で自身が感じた疑念を公胤にぶつけます。

すると公胤から返って来たのは、

「仏教の本場、そう(中国)に行ってみたら、何か答えが見つかるかもしれん」

というものでした。

そこから宋への渡航に想いを募らせていった道元は、宋に二度渡ったことがあるという臨済宗の開祖栄西からの教えを望むように。

しかし結局、栄西本人に師事はしておらず、辿り着いたのは栄西の弟子のなかでも優れた僧だと評判の高かった明全みょうぜんのもとでした。

道元は17歳のころ、京都市東山区の建仁寺にて明全に弟子入り

そしてこの明全も、師である栄西の影響からか、宋への渡航を夢見る人物だったのです。

道元と明全の想いが重なったことで、ふたりの宋での修行は一気に現実的なものとなっていきます。

宋での修行・悟りへ

1223年、24歳のころに道元は師・明全とともに宋への渡航を果たします。

この地にて道元は

天堂山景徳寺てんどうざんけいとくじ

天台山報恩光孝寺てんだいざんほうおんこうこうじ

瑞巌寺じゅがんじ

など、さまざまな寺社を訪ね歩き、真の師たる人物を探す旅をします。

しかし高僧と名高い人物をいくら訪ねても、なかなか納得のいく答えは得られません…。

そんな道元の耳に入って来たのはこんな話でした。

「景徳寺の和尚さんが新しく替わったみたいで、その人がなんかすごいらしいよ」

道元は一度景徳寺で修行をしたものの、しっくり来ず寺を離れています。

ただそんなにすごい僧侶が和尚になったなら…と、再び景徳寺へと戻ることにするのです。

そこで出会ったのが、如浄にょじょう禅師でした。

この人が真の師だと直感した道元は、すぐさま弟子入りを志願。

如浄は簡単に弟子は取らない主義で通った人物でしたが、道元に関してはその素質を一目で見抜き、快く弟子入りを認めたといいます。

以降、如浄と道元のあいだには親子同然の関係が築かれ、昼夜を問わない問答や修行を通して、1225年、道元はついに悟りの境地へと至るのです。

帰国・興聖寺の建立

1227年のこと、道元は帰国し、如浄から学んだ禅の思想を普及させるべく、活動を行っていきます。

道元は如浄の一番弟子と呼ぶに等しい僧となっていましたが、如浄は自身の跡取りとするよりも、日本での布教活動に精を出すよう勧めたようですね。

この時期に残している著書普勧座禅儀ふかんざぜんぎは、その名の通り一般層に禅の思想を広めるための著書です。

そんな道元の努力が報われるのは、帰国から6年後の1233年のこと。

建仁寺や深草の極楽寺などに世話になりながら、地道に弟子を増やしていった道元はこの年に興聖寺を創建し、ようやく自身の寺を持つに至ります。

興聖寺ができてからはその評判を聞きつけ、のちに一番弟子となる弧雲懐奘こうんえじょうが弟子入りしたほか、武家を中心にその教えが広がっていくことに。

有名な人物だと、京都の守護を担う六波羅探題ろくはらたんだいを補佐していた波多野義重はたのよししげなども、道元の教えに傾倒しました。

このころから、自身の教えの集大成である『正法眼蔵』の執筆も始めています。

この時期の弟子は総勢2,000人ともいわれ、その勢いは相当なもの。

道元も軌道に乗り始めた活動に

「ここから全国区にしていくぞ!」

という心持ちだったのではないでしょうか。

比叡山からの弾圧・永平寺の建立へ

ただ道元の曹洞宗は、少々話題になりすぎたようです。

しかも今まで日本で教えられていた仏教とはまったく違う教えだったため、

「そんなもん広められたら困る!」

と、比叡山からの弾圧を受けてしまいます。

事の次第は道元の身の危険すら起こりえる状況となっていたため、門下となっていた波多野義重の引き立てにより、道元は拠点を越前(現・福井県)へと移すことに。

波多野は朝廷から越前の荘園を預けられる地頭だったため、その領地で加護を受けながらの修行に励めることになったわけです。

また道元は宋にいたころ、如浄から、人里を離れた山奥での修行を勧められていたという話もあり、越前へ移ったことにはそれを実践する意味もあったといいます。

こうして1244年、道元は44歳のころ、越前にて曹洞宗の総本山となる大仏寺(のちの永平寺)を創建。

それまで目指していた一般層への普及はひとまず横に置き、優れた後継者を育てることに力を入れていきます。

1253年に道元が死没すると、永平寺は弟子の懐奘えじょうによって引き継がれました。

そして、その次代の和尚・義介ぎかいの弟子である瑩山紹瑾けいざんじょうきんによって、その教えは一般層へ普及することに。

曹洞宗では道元のことを高祖、瑩山のことを太祖と呼び、創始者と普及を担った人物それぞれに称号があります。

越前に移ってから、布教より後進育成を重視した道元の方針は見事に功を奏しているのですね。

道元の著書『正法眼蔵しょうぼうがんぞう』も、その生前には完成していませんが、後を継いだ弟子たちに編纂へんさんされ、江戸時代には96巻にもなる大作として成立しています。

執権・北条時頼も道元の教えにすがった?

永平寺の建立後、1248~49年にかけて半年間だけ、道元が寺を離れたことがありました。

これは鎌倉で政務を司る執権・北条時頼に呼びだされてのこと。

波多野義重から道元の噂を聞いていた時頼は、その教えに興味をもち、道元に関東地方での教化を進めさせようとしたのです。

このころ幕府内では勢力抗争が激化しており、争いに身を置く時頼も、道元の教えに救いを求めていたのかもしれません。

ただこの鎌倉での活動は日の目を見ず、道元は短期間で永平寺へと戻っています。

抗争が絶えないなかでの布教活動はさぞ困難なことだったのでしょうね…。

 

道元の教えとは

道元が宋で悟りを開き、その教えを日本に持ち帰ったことはわかりました。

ところで…

「そういえば、道元が比叡山時代に感じていた疑念は解消されたの?」

と思っていた人も多いのではないでしょうか。

道元が抱いた疑念は

・私欲のために修行している僧が多い

・人が生まれてもともと仏というなら、修行しなくていいんじゃ?

というものでしたよね。

もちろん道元が会得した悟りは、これらの疑念もすべて解消しています。

ここからは道元の教えから、その悟りの境地を垣間見ていきましょう。

只管打坐(しかんたざ)

道元が日本に持ち帰った教えの根本は「只管打坐」です。

この言葉の意味は

「ただ座るだけでいいよ」

というもの。

…は?それだけ?

と思わず声が出てしまいそうですが、この教えがシンプルながらに奥深い…。

禅の修行というのは、座禅を組み、目をつむってひたすらその行為にのみ集中することです。

このとき

「俺は座禅の修行をして、悟りを開くんだ!」

などと考えながら行うと、その境地には至れません。

こう、悟りを開きたいという欲望を持ちながら修行に挑むと、座禅を組んでいるあいだも

「どうして俺は悟れないんだ?というか、悟りってそもそもなんなんだ?」

などという、いろんな迷いが浮かんできますよね。

この状態は座禅という行為に集中しているのではなく、いろいろ想いを巡らせることに気を取られている状態です。

本当に座禅のみに集中していれば、心に迷いは生じません。

道元にいわせてみれば、その平穏な状態のことを、悟りというみたいですね。

つまり道元が疑念を抱いた「私欲のために修行をする僧たち」については、いつまで経っても悟りに辿り着くことはないのです。

…残念。

この事実をもって道元は

「悟りを開くには、ただ座るだけでいいよ」

と言っているのです。

修証一等(しゅうしょういっとう)

道元の教えでもうひとつ鍵となる考え方が、修証一等というものです。

これは要するに

「集中して修行を行っている状態が、すなわち悟りである」

ということ。

これはなにも修行だけでなく、日常の行いすべてに当てはめられるといいます。

悩み事を抱えていたりすると、勉強や仕事をしていても、あれこれ考えてしまって手につかない…みたいなことってありますよね。

しかし現状を変えることができるのは、そのときやっている”行い”によってだけ。

あれこれ悩んだところで状況は変わりません。

ただ、勉強や仕事に集中して頑張ることで解決できることはあるはずです。

なにより先ほど述べたように、行いに本当に集中できていれば、余計なことに思い悩むことはありません。

こう考えてみると、行いに集中できていないことが、いかに生活の妨げになっているかがわかりますね。

…といっても、それがなかなか一筋縄ではいかないから、道元も中国まで答えを探しに行ったわけですが…。

人は生まれながらにして仏?

で、道元が疑念を抱いた

「人は生まれながらにして仏である」

という教えについては、道元はその答えを

「そうか、我々は本来は仏だからこそ修行ができるんだ!」

と結論付けています。

…これもまた難解ですが、筆者は

「人は本来、集中して座禅を行う能力を備えているものの、雑念のせいでそれを忘れている」

ということではないかと解釈しました。

そして雑念に囚われず修行に集中するという行為ができるのは人間だけ。

だから人間は生まれながらにして仏といえるのでは?

うーん、やっぱり難しい…。

興味のある人は、著書『正法眼蔵』をわかりやすく解説した入門書がいくつも出ているので、そういったものに触れてみるのもいいですね。

 

きょうのまとめ

幼くして苛まれた過酷な運命から、真理を求めて出家、中国にまで渡りその答えを日本に持ち帰った道元。

禅、マインドフルネス、瞑想…呼び方はさまざまですが、その教えは現代になってより、多くの人を支える方法論となって普及していることはたしかです。

多大な苦心の末見つけた道元の答えは、以後数百年、あらゆる人を救い続けてきたのですね。

最後に今回のまとめをしておきましょう。

① 道元は幼くして父母を亡くし、世の無常を知ったことで出家の道を望んだ。

② 出家した道元を待ち受けていたのは、私欲のために修行をする僧たちや、「人は生まれながらにして仏である」という教えへの疑念。そこから仏教の本場・宋への渡航を思い描くようになる。

③ 宋で如浄禅師に弟子入りした道元は悟りを開き、帰国して教えを広めるため後継者の育成に励んだ。その弟子たちの尽力により、曹洞宗が後世で普及することになる。

④ 道元の教えは「あれこれ考えず、行いにだけ集中すること」。そうすれば迷いは生じず、心は平穏に保たれる。

道元が辿り着いたのは納得がいくまで妥協せず、求め続けたからこその真理。

その生き様は、なにか目標に向かって頑張っている人にとって、参考にできる部分がたくさんあります。

 
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