法然とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】

 

平安時代末期から鎌倉時代にかけて浄土宗を広めた

法然ほうねん

彼はどんな人物で、どんな人生を送ったのでしょうか。

今回は法然の生涯について、簡単に紹介していきます。

 

法然はどんな人?

プロフィール
  • 出身地:美作国(現在の岡山県)
  • 生年月日:1133年4月7日
  • 死亡年月日:1212年1月25日(享年80歳)
  • 浄土宗の開祖。専修念仏の教えを説いた。諱(いみな)は源空。

 

法然 年表

年表

西暦(年齢)

1133年(1歳)美作国(現在の岡山県)に生まれる。(幼名、勢至丸)

1141年(9歳)父が夜襲に遭い、死亡。

1147年(13歳)比叡山延暦寺に登り、源光・皇円に師事。授戒。

1150年(18歳)京都・黒谷に移り、叡空に師事。

1175年(43歳)浄土宗を開宗。

1186年(54歳)大原問答

1198年(66歳)『選択本願念仏集』を著す。

1207年(75歳)讃岐に流されるも、同年赦免。

1211年(79歳)京都に戻る。

1212年(80歳)京都東山吉水で入滅。

 

浄土宗を開宗した法然の生涯と死後

法然は美作国みまさかのくに(現在の岡山県東北部、兵庫県佐用郡佐用町の一部)の押領使おうりょうし漆間時国うるまときくにの子として誕生しました。

幼名は勢至丸せいしまるといいます。

父の死がきっかけで仏門に

法然が9歳のとき、父は夜襲に遭い亡くなっています。

瀕死の父親は法然に対し、

「決して仇を討たないように」

との遺言を残しました。

この出来事がきっかけで法然は、叔父の僧・観覚かんがくに引き取られます。

そして観覚の勧めによって、法然は比叡山延暦寺に登ることになりました。

比叡山で学ぶ

延暦寺では源光げんくう、そして皇円こうえんという僧に師事します。

その後は京都の黒谷くろだにという場所で、叡空えいくうの下に学びました。

このとき、法然房源空ほうねんぼうげんくうの名を授けられています。

浄土宗を開く

やがて唐の僧・善導大師(613~681)に傾倒。

善導の著書・『観無量寿経疏』の「散善義」を読み、専修念仏せんじゅねんぶつ(往生するには「南無阿弥陀仏」をひたすら唱えることが必要とする考えのこと)の教えに行きつきました。

そして京都東山の吉水よしみずに移り住み、老若貴賤問わず布教を始めます。

ここに、浄土宗が誕生したのです。

讃岐に配流

法然の教えは源平の争乱後、京都周辺の公家や武士たちを中心に広まりました。

しかし、従来の仏教勢力は子の状況を快く思いませんでした。

迫害を受けるに至った法然は、讃岐(現在の香川県)に流されます。

そのとき、法然は75歳でした。

ですがすぐに許されて再び京都に戻りますが、翌年に入滅しました(享年80)。

 

法然にまつわるエピソード

それでは法然にまつわるエピソードを二つご紹介します。

藤井元彦にさせられる

讃岐に流罪が決まった法然は、強制的に還俗げんぞく(出家した人が一般人に戻ること)させられました。

そのときに与えられた名前は藤井元彦

今の時代にも普通にいそうですね。笑

死後も続く弾圧

法然の死後も、旧仏教の浄土宗に対する迫害は続きます。

墓所が破壊され、さらに遺骸を鴨川に流す計画まで持ち上がっていたようです。

そこで弟子たちは法然の遺骸をこっそりと移し、荼毘(だび)に付します。

そして法然の遺骨は、京都の知恩院などに分骨されました。

 

きょうのまとめ

今回は浄土宗の開祖・法然の生涯についてご紹介しました。

法然とは?

①  父の死がきっかけで仏門に入った

②  浄土宗を改宗するも、旧仏教側からの迫害を受けた

③ 迫害は法然の死後も続き、お墓が壊された

こちらのサイトでは他にも、鎌倉仏教にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 
目次に戻る ▶▶
 

 

その他の人物はこちら

平安時代に活躍した歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【平安時代】に活躍したその他の歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

時代別 歴史上の人物

関連記事 >>>> 「【時代別】歴史上の人物はこちらをどうぞ。」

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

5 − 1 =