中国史の中でも特に有名な皇帝の一人である始皇帝ですが、
生い立ちなどについては謎に包まれていることも多いです。
今回は特に始皇帝の母の人物像と、その人物に関する伝承をまとめていきます。
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始皇帝の母はどんな人?
始皇帝の母の名前と、その生い立ち
始皇帝の母は趙姫(ちょうき)と呼ばれている女性です。
この趙姫という名前は彼女の本当の名前ではありません。
なぜなら趙姫というのは、「 趙(ちょう)の出身の女性 」という意味しか持っていないからです。
本名は分かっていません。
彼女はとても美しい踊り子で、まず呂不韋(りょふい)という大商人の愛人になりました。
その後に始皇帝の父である子楚(しそ)に見初められて寵愛(ちょうあい)を受けることになり、始皇帝を懐妊することになります。
紀元前259年に、始皇帝を政という名前で出産しました。
趙姫は紀元前250年には秦に入国した後、夫の子楚(しそ)が紀元前249年に荘襄王(そうじょうおう)として秦王に即位すると、王后になります。
紀元前246年に荘襄王が死去してしまい、まだ13歳の少年である政が秦王になると、彼女は王太后となって実権を握ることになりました。
しかし彼女は丞相(じょうしょう)に就任した呂不韋(りょふい)や嫪毐(ろうあい)と密通し、
嫪毐の子どもを2人身ごもってしまうなどの問題行動を起こしてしまいます。
さらに嫪毐が紀元前238年にクーデターを起こし、始皇帝によって嫪毐と2人の息子は処刑されると、
同じように始皇帝を怒らせてしまった彼女は、幽閉されることになってしまったのです。
紀元前228年に死去すると、彼女には帝太后という追号を与えられました。
趙姫が悪女とされている理由
上記の通り、彼女が悪女とされているのは
・踊り子という低い身分から大商人、さらにはのちに皇帝となる人物の寵愛(ちょうあい)を受けて出世し、自分の息子が幼くして皇帝に就任してからは自分が実権を握った
・密通した相手とクーデターを起こした
などの理由があり、則天武后(そくてんぶこう)や西太后(せいたいごう)、呂雉(りょち)などの中国三大悪女には劣りますが、やはり悪女として知られています。
趙姫と始皇帝にまつわる伝説
始皇帝は女性不信
始皇帝には他の皇帝と同じように数多くの愛人がいて、息子を12人、娘は10人も子供がいますが、
始皇帝が統治していた時には皇后と呼ばれる女性はいませんでした。
始皇帝の時代に皇后がいなかった理由としては、
・皇后という呼び方がそもそも存在していなかった
・始皇帝に比べると皇后の地位は低いため、史書に残らなかった、もしくは皇后に関する記述が少なかったために、後世のどこかのタイミングで紛失した
などの理由が挙げられますが、「 始皇帝は女性不信だった 」という伝説もあります。
始皇帝が女性不信になってしまったのは、母である趙姫(ちょうき)の密通や、
彼女の愛人が自分に対してクーデターを起こしたことが原因であると考えているのです。
しかし始皇帝には沢山の子どもがいましたし、愛人も多くいたという事実があるので、この伝説がどこまで本当かは分かりません。
趙姫は本当に悪女なの?
史記などの歴史書に趙姫の悪行が記述されていることは事実ですが、
実際にどこまでが真実かは分からない部分が多いようです。
まず夫が死去してからまだ幼い始皇帝の代わりに実権を握った、
という件については当時からすれば当然のことだった、という見方もあります。
秦の時代には女性にもある程度権力があったということは事実です。
女性にある程度の権力があったということの証拠としては、始皇帝の祖母の墓が夫との合装ではなく、
自分ひとり用の墓であることにもかかわらず、巨大な墓であるということが挙げられます。
また、女性が夫の存命中に他の男と密通することは有罪ですが、夫が死んでからなら罪にはならないという決まりもあります。
夫が死去してから権力を握ったときには趙姫は未亡人だったので、呂不韋と密通するのは悪いことではない、ということになります。
次に、愛人である嫪毐がクーデターを起こしてしまったということについてですが、
実際にクーデターが起こっていたかどうかという部分でも分からないことがあるようです。
始皇帝が嫪毐に反乱の罪を着せて処刑した、という説もあります。
今日のまとめ
今回は始皇帝の母、趙姫についてまとめてみました。
一時権力を握っていたことがあっても本名すら分からない彼女については、
悪目立ちしてしまった行動の部分が誇張した記述され、
悪女というイメージが作られてしまったのかもしれません。
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