石田三成が自分の俸禄の約半分を島左近に差し出して、
彼を召し抱えたことは有名なエピソードです。
三成にはどうしても島左近や渡辺勘兵衛などの優れた武将を味方にしたい事情がありました。
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石田三成の武将としての才能
寺の小姓だった三成は、秀吉に見出され、彼と共に中国各地を転戦しました。
もともと寺で学問修業していたくらいですから、
三成は武闘派というよりも頭脳派タイプの人物です。
戦いが得意でなくても出世した三成
豊臣秀吉は、そんな三成の適性を見抜いていました。
そこで彼は三成を堺奉行、検地奉行などの奉行職に就かせたのです。
その期待に応えた三成はやがて豊臣政権における五奉行の一人として活躍しました。
ただ、三成の名誉のために記しておくと、全く彼に戦闘能力がなかったわけではありません。
三成にとっての初陣1581年の淡路島攻略戦では武功を立て、1583年賤ヶ岳の戦いでは、柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当し、さらに一番槍の功名をあげています。
三成の得意分野とは
秀吉は1587年の九州平定に大軍を動員して短期間で終了させています。
その勝因の1つは、水軍を利用した効率的な大軍の動員や優れた物資輸送能力によるものです。
そしてそれを実行したのは、三成ら有能な官僚系武将たちでした。
三成は朝鮮出兵後での明との講和交渉などで手腕を発揮し、交渉事や物資調達などが得意だったとみられます。
島左近の軍才に惚れた石田三成と三成の熱意にほだされた左近
しかし頭脳派タイプの石田三成は、自分の不得意分野について目をつぶっていたわけではありません。
彼は自分にない戦いのセンスを補う必要があることを自覚していました。
そこで狙ったのが、多くの武将から高い評価を受け、人気があった島左近という人材でした。
島左近とは
島清興(しまきよおき)が本名です。
頭は禿げ、いかつい顔をした骨太な豪傑だったということですが、彼の肖像画などは一切残されていません。
幼少時より孫・呉の書を読み、兵法に通じた軍識家として知られた人物でした。
はじめ左近は筒井順慶に仕え、のち羽柴秀長、秀保に仕えて戦功をあげました。
多くの武将から仕官のオファーがあったのですが、いずれの誘いも断り続けていた左近。
ところが、なぜか彼は三成に仕官する話を受け入れたのです。
俸禄はなんと破格の1万5千石~2万石という大名クラス待遇。
しかし、左近は高給だけに釣られて仕官を決めたのではありません。
彼が20歳も年下の三成への仕官を決めたのは、俸禄4万石の三成が自分の収入の約半分を渡してでも左近を召し抱えたいというその熱意に負けたからだったのです。
1590年の小田原征伐のときにはすでに50歳すぎの左近が三成の下で重臣として働いていたことが資料に残っています。
島左近と三成の性格の違い
秀吉の死後、徳川家康は今がチャンスとばかりに豊臣家臣団の中で勢力をつけ、突出していきます。
一方、律儀に豊臣家を守っていこうとする石田三成は、家康陣営から疎外されていきました。
その立場を憂えた左近は、家康討取りの戦略を企てますが、そのつど三成に時期尚早と思い留まらされました。
関ヶ原の合戦の前哨戦では、左近は三成の先鋒として岐阜に出動し、期待通りの大活躍でした。
そして合戦前夜、左近は勢いに乗ったこのチャンスに東軍への夜討ちを進言。
しかし、三成はまたもやそのアイデアを退けてしまいます。
動物的な勘で危険やチャンスを察知し、行動しようとする左近に対し、慎重派の三成。
左近は「明日、東軍が勢いづけば万に一つも勝ち目がない」といって関ヶ原の合戦での討死の覚悟を決めたといいます。
それでも左近は三成から離れることはありませんでした。
彼の予測通り、関ヶ原の戦いで西軍は敗北。
左近は黒田長政軍の銃に当たって絶命(死因については諸説あり)するまで三成のために尽力しました。
優れた武将だった大谷吉継が、負けると知りながら親友である三成の西軍につき、戦場で死んでいったのと似ていますね。
ここにもいた! 三成に惚れた男、渡辺勘兵衛の場合
島左近が三成に仕官するより前の話しですが、三成の小姓時代にも左近の話しに似たエピソードが残っています。
その頃評判だった豪傑武将に渡辺勘兵衛という人物がいました。
彼は柴田勝家や豊臣秀吉に2万石を提示されても「10万石でなければ仕官しない」と断っていた大変な自信家。
ところがあるとき彼は、わずか500石の家禄だった石田三成の家臣になってしまったのです。
不思議に思った秀吉が、三成にどうやって勘兵衛を説得したのか尋ねました。
すると、三成は
と涼しげに回答したそうです。
同時に三成は、彼が将来100万石を得た際には勘兵衛に10万石を与えると約束していたのですが、結局三成が生きている間に俸禄が100万石になることはありませんでした。
しかし勘兵衛は石田三成に惚れ込み、三成から途中何度加増をオファーされても
と断り、生涯500石で仕えたのです。
この彼も関ヶ原の戦いに石田三成勢として奮戦し、重傷を負った末自害したとされます。
自害の前に勘兵衛が今生の別れに石田三成に会いにいったとき、
と嘆く三成に対してそれまでの恩義について感謝したということです。
きょうのまとめ
これらの逸話が残っていることから考えれば、三成は気むずかしい武将を相手にしてのスカウト能力に長けていただけではなく、彼らが惚れる人間的な魅力を持っていた人物だとわかります。
簡単なまとめ
① 石田三成は自分に合戦で戦うための才能がないことを自覚していた
② 自分に足りない軍才を持つ者を召し抱えるためなら金を惜しむことはなかった
③三成に仕えた武将たちは、最終的に金ではなく三成の人柄に惚れて尽した
関ヶ原の戦いの時には人望がなく、共に豊臣秀吉に仕えた多くの元同僚の武将たちにも背を向けられた石田三成。
しかし、普段からゴマをすったりいい人ぶったりしない三成が本気になって口説く時、そのスカウト術と熱意にほだされて命を預ける有能な武将たちもまた存在したのです。
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