関羽雲長はとてもクセの強い性格だった!義理堅さとプライドが命

 

三国時代、蜀の武将として隋逸の強さを誇った

関羽雲長(かんううんちょう)。

突出した才能を持つ者は得てして変わり者とでもいいましょうか…彼はかなりクセの強い性格をしていました。

良い部分もあれば悪い部分もある…それは誰にでもいえることですが、関羽の場合は良くも悪くも極端です。

そんな彼の性格について、長所と短所の両面から読み解いていきましょう。

 

義理堅く男らしい関羽

関羽は黄巾の乱にて、劉備が義勇軍を結成したことをきっかけに劉備の部下となりました。

このとき同じく部下となった張飛を含め、三人は寝食を共にし、義兄弟の契りを交わしています。

関羽はこれ以来生涯に渡って劉備への忠義を果たし、それにまつわる逸話が一本筋の通った内容になっていて、三国時代の武将の中でも特に人気を集めているのです。

一時は曹操の部下になり、厚遇を受ける

198年~200年ごろの話、劉備は一度曹操と手を結んでいますが、自身が勢力を広げていく上で曹操の存在が邪魔になると考え、曹操を裏切ります。

徐州を占拠していた劉備は、小沛(しょうはい)にて曹操の攻撃を受け、逃走しました。

このとき、徐州の下邳(かひ)を任されていた関羽は、曹操に捕虜として捕らえられてしまいます。

なんでも、関羽は劉備の妻子を連れていたため逃げることは適わず、降伏したのも苦渋の決断だったようです。

しかし一度は仲間として共に戦ったことのある曹操は関羽の実力を知っており、捕虜として捕らえた彼を副将軍に任命するなど、これでもかと厚遇しました。

このとき高価な贈り物もかなり貰っています。

敵将も認めるほどの義士だった

曹操は関羽が劉備をどれぐらい慕っているのかも知っていたため、部下の張遼(ちょうりょう)を通じて自分の元に留まる意志があるのか探りを入れています。

それに対して関羽は

「曹公(曹操)からは厚遇を受けているので、その恩義は必ず返します。しかし私は劉将軍(劉備)に忠義を誓った身です。恩義を返した後には、再び劉将軍の元へ帰ろうと思っています」

と答えたのです。

この後関羽は官渡の戦いで敵将の顔良の首を取る功績を果たし、曹操の元を去っています。

そのときなんと、それまでに貰った贈り物には一切手を付けない状態で返したというから驚きです。

また劉備は曹操と敵対していた袁紹と手を結んでいたので、これは関羽ほどの強者が敵対する勢力に加わることでもありました。

関羽と敵対することを恐れた曹操の部下は、彼の後を追おうとしましたが、曹操はこれを止めています。

曹操の言い分は「関羽の劉備への忠義は賞賛に値する。引き留めることで水を差してはならない」といったところ。

関羽は曹操軍での地位よりも、高価な贈り物よりも、劉備への忠義を選んだのです。

 

プライドの高い関羽

地位にも富にも流されず、忠義を貫く関羽はいかにも男らしく、多くの人が憧れるのにも納得させられます。

しかしそんな飛び抜けた長所を持つ関羽にも、決定的な短所がありました。

彼はときに仲間から煙たがられるぐらい、プライドが高かったのです。

手術を受けながら宴会に参加!?

219年のこと、樊城(はんじょう)の戦いで曹操軍と争っていた関羽は、曹操軍の龐徳(ほうとく)が放った毒矢に肘を射貫かれ、肘を切開しての手術を余儀なくされます。

自身の強さを部下にアピールするためでしょうか、なんと関羽はこの手術を宴会に出席しながら執り行わせました。

関羽は手術によって大量の血を流しながらも、談笑しながら酒や肉をたしなんでいたんだとか。

当時は手術するにも麻酔なんてなかったでしょうから、相当な苦痛を伴っていたはずですが…。

関羽の気持ちを代弁すると「ワシぐらいになると、これぐらいは痛くも痒くもないわ!」といったところでしょうか。

確かにすごい逸話ではありますが、食事中に手術を見せられる部下たちはたまったもんじゃありません…。

自分が一番じゃないと嫌!

関羽はプライドがすごく高かったので、部下の面倒見こそ良かったのですが、自分と同格以上の者に対してはあからさまに敵対心を剥き出しにします。

曹操とも渡り合うほどの実力を持つ馬超(ばちょう)が劉備軍に加わった際には、諸葛亮(しょかつりょう)に手紙をよこし、馬超の実力に探りを入れました。

このとき諸葛亮は関羽に気を遣い、「馬超は張飛に匹敵するほどの強者ですが、ヒゲ殿(関羽の愛称)には適いませんよ」と返事をします。

気を良くした関羽は部下たちにその手紙を見せびらかしたんだとか。

また黄忠(こうちゅう)が後将軍に任命されると同時に、関羽は同格の前将軍に任命されますが、このときも「あんな老いぼれとワシが同格なわけがあるか!」と異議を申し立てています。

関羽は劉備軍の中では、常に自分が一番でなければ嫌だったのでしょうね。

そのせいで仲間との折り合いが付かず、南都太守を務めていた麋芳(びほう)、将軍を務める士仁(しじん)は裏切り、敵国の呉に協力。

これを発端に関羽は追い詰められることになり、処刑されてしまいます。

結局そのプライドの高さが、関羽の身を滅ぼすことになってしまったのですね。

 

きょうのまとめ

敵将をも感嘆させるほどの義理堅さを持っていた関羽。

しかしそのプライドの高さは仲間内に亀裂を走らせるほどの欠点となっていました。

関羽の性格を簡単にまとめると…

① 劉備への忠義を尽くし、地位や富には少しもなびかなかった

② 自分の優れた部分を部下に見せびらかすきらいがあった

③ 同格以上の仲間に敵対心を表すあまり、最後は裏切られてしまった

といったところです。

男らしくてカッコイイ関羽ですが、彼がもう少し謙虚に振る舞えていたら、さらに活躍できていたかもしれません。

 

関羽雲長の年表を含む【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。
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