明治時代に不平等条約を改正したことで有名な、陸奥宗光(むつ・むねみつ)。
「カミソリ」と呼ばれるほど頭脳明晰だったという陸奥ですが、
さらに彼の奥さんはとんでもない美人だったことをご存じでしょうか?
なんとも羨ましい。
今回は陸奥宗光の夫人・陸奥亮子(りょうこ)について、簡単にご紹介していきます。
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鹿鳴館の華と呼ばれた美人
まず陸奥亮子の写真をご覧になったことない方は、ぜひ検索してみてください。
昔は今と比べると技術がまだ発達していませんから、
どんなにイケメンや美人を撮影しても「?」という出来栄えになったことも多かったようです。
今見ても超美人
しかし亮子夫人は、今でも十分に通用するほど美人に写っています。
くっきりとした目鼻立ちから、ハーフかな?
と思われるかもしれませんが、純粋な日本人です。
私には、女優の天海祐希さんに見えます。
アーネスト・サトウも美貌を褒めた
さて、陸奥宗光と結婚し、その後社交界デビューした亮子はその美貌から「鹿鳴館の華(※)」と呼ばれました。
さらに陸奥宗光が駐米公使となって渡米した際にも、「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」などと言われていたそうです。
美しさだけではなく、教養も問われる社交界ですから、まさに才色兼備の女性だったということですね。
陸奥亮子はアーネスト・サトウ(※)に容姿を褒められた、唯一の日本人女性ともいわれているんですよ。
陸奥亮子の生涯
では、陸奥亮子はどのような人生を歩んだのでしょうか。
新橋で評判の芸妓だった
亮子は播磨(はりま)国龍野藩士の娘として、江戸で生まれました。
ですが、母親が父親の正妻ではなかったこともあり、亮子は幼いころから新橋で芸者の修行をしていたそうです。
小鈴(子鈴・小兼とも)という名で芸妓となると、その美しさから新橋でも一、二位を争うほどの評判だったといいます。
同時に、男嫌いで身持ちが堅かったことでも知られていたようです。
さて、陸奥宗光には蓮子という奥さんがいたのですが、死別していました。
ちょうどその頃、亮子は宗光に見初められ、二人は結婚したということです。
必死に教養を身に付けて夫を支えた
陸奥宗光は西南戦争が起こったとき、反政府運動に加担した罪で5年間、投獄されていたことがあります。
そのため亮子夫人は宗光の友人である、とある夫婦のもとに身を寄せました。
その頃は経済的に大変苦労し、その夫婦に仕えながらも、亮子は日本赤十字社の社員として働いていたそうです。
そんな亮子ですから、夫が政府の要職に就いたときにはさらなる努力をします。
英語をはじめ、文学や歴史、ファッションやテーブルマナーまで猛勉強し、夫の片腕として立派に働きました。
陸奥宗光が外交で成功を収めることができたのも、亮子の支えがあったからといえるのではないでしょうか。
亮子はもともとそんなに体が丈夫ではなかったそうですから、相当苦労したことでしょう。
亮子は宗光の死後からわずか3年後、45歳という若さでこの世を去りました。
きょうのまとめ
今回は陸奥宗光の夫人・陸奥亮子について簡単にご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。
陸奥亮子とは、
② 新橋で芸妓をしているときに陸奥宗光と出会い、結婚した
③ 亮子は美しいだけではなく、教養を身に付けて夫を支えた
人物だったといえます。
こちらのサイトでは他にも、陸奥宗光にまつわる記事をわかりやすく書いています。
ご興味をお持ちの方は、是非ご覧になってくださいね!
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