武蔵から安房につながる要地、国府台での合戦に大勝し、
関東へ勢力を伸ばす基盤を作った、父・氏綱。
その跡を継ぎ、後北条の第3代目当主となった北条氏康。
氏康が残した名言とは、どのようなものだったのでしょうか?
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北条氏康を取り巻く環境
父、氏綱の跡を継ぎ、第3代目当主となった氏康ですが、
彼を取り巻く環境は、予断を許さない状況でした。
力を付けてきた新興勢力は、既存勢力にとっては脅威でしかないからです。
1545年には、扇谷・山内の両上杉、甲斐武田、駿河今川、さらに同盟国であった古河公方(こがくぼう)が裏切り、
北条包囲網が完成するという一大危機を迎えます。
氏康は巧みな外交交渉と軍事戦略で、この危機を乗り越え、さらなる発展を後北条にもたらすことになります。
父が子へ残す言葉
考えてみると、北条早雲は子の氏綱を心配し、「早雲寺殿廿一箇条」を残し、
北条氏綱は子の氏康に「五箇条の御書置」を残しています。
親が子に残す言葉には、自らが通り抜けてきた苦難の道で得た知恵が凝縮されているものです。
それでは、北条氏康が子の氏政に残した言葉とは、どのようなものだったのでしょう。
北条氏康が子に残した言葉
氏康には、子氏政の食事の仕方に対して、大事を説く逸話があります。
氏康と氏政が食事を共にしていた時、氏政は飯に汁をかけて食べていたのですが、
二度も汁を継ぎ足して食べている様子を見て、氏康は大いに嘆いたと言われています。
どうでもいいようなことに思えてしまう一件なのですが、氏康は氏政に対して次のように語るのです。
毎日する食事であるのに、飯にかける汁を一度で適切な量にすることもできず、
二度までも汁を注いで、やっと適量にするとは愚か極まりないことだ。
そのように日々の些細な事柄でさえ的確にできないものが、
家臣の心を察し、判断することがどうしてできようか。
人心をつかんでこその国
なんだか難癖をつけられているようにも思えてしまうのですが、
氏康の真意はどこにあったのでしょうか。
強い国を作る第一は「人」です。
国主が人心をつかみ一つにまとまってこそ、国の繁栄は成ります。
しかしながら、人は千差万別。
その心をつかむというのは、最も難しいことでもあると言えるでしょう。
そこにはこうすればいいというような型はなく、日々小さなことも見逃さず自ら判断し、人に対していかなければなりません。
それゆえに、子の氏政が何度も飯に汁をかけているのを見て、そのような心掛けでは人心をつかむことなど到底できないと叱ったのではないでしょうか。
小事が大事
有力大名に囲まれ予断を許さない状況において、一瞬の判断の遅れや些細な事柄の見落としは、
国を衰退させ、滅ぼしてしまう事にもなりかねません。
度重なる危難を乗り越え強敵と渡り合ってきた氏康は、
日々の些細なことの積み重ねが、大事を成すのに最も大切なことであることを身に染みて実感していたのでしょう。
小事を疎かにしては大事は成らないということも、子の氏政に伝えたかったのでしょう。
きょうのまとめ
早雲が氏綱に、氏綱が氏康に言葉を残したように、氏康も子の氏政に言葉を残しています。
これから苦難の矢面に立つことを思い、親が子に残す言葉は名言として後世に残ることが多いです。
氏康が子の氏政に残した言葉を簡単にまとめてみると、
「日々の些事を疎かにせず、人と接し、物事にあたれ」ということでしょう。
これは早雲、氏綱から連なる、後北条家の教えとも言えます。
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