特に政治的なポリシーはなく、
見方によれば情勢に翻弄された後白河法皇。
その時に一番勢いのあった人物と協力し反目しながら
公家から武士の時代への境目を渡りあるいた人物です。
さて、後白河法皇はどんな人物で、
どうやって鎌倉幕府と共に歴史を刻もうとしていたのでしょうか。
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後白河法皇はどんな人?
- 出身地:京(現在の京都市)
- 生年月日:1127年10月18日
- 死亡年月日:1192年4月26日(享年66歳)
- 藤原氏、源氏、平氏という3つの一族を手玉に取り、歴史上最大の実力を持った天皇の一人
後白河法皇 年表
西暦(年齢)
1127年(1歳)鳥羽上皇の第四皇子雅仁親王として誕生
1155年(29歳)異母弟の近衛天皇が亡くなり、雅仁親王が後白河天皇となる
1156年(30歳)保元の乱
1158年(32歳)後白河天皇が譲位して二条天皇が誕生。後白河上皇となる
1159年(33歳)平治の乱
1169年(43歳)後白河上皇が出家して後白河法皇となる
1177年(51歳)鹿ヶ谷事件
1179年(53歳)治承3年の政変で平清盛が後白河法皇を幽閉する
1180年(54歳)以仁王が平氏追討令を出す。源頼朝が挙兵する
1181年(55歳)平清盛死没。後白河法皇が院政を再開
1183年(57歳)後白河法皇が源義仲に平氏追討の院宣を出す
1184年(58歳)源義経が源義仲を破り、義仲戦死
1185年(59歳)壇ノ浦で平氏が滅亡する。後白河法皇が義経に源頼朝の追討の宣旨を出し、のち源頼朝に源義経の追討の宣旨を出す
1189年(63歳)源義経が奥州平泉にて自決
1190年(64歳)後白河法皇が源頼朝と面会
1192年(66歳)後白河法皇崩御
手駒を捨てるかのように武士を利用して時代を乗り切った法皇
「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」
と同母兄の崇徳上皇に酷評された後白河法皇。
天皇即位前は和歌が苦手で庶民の流行歌である今様ばかりを歌ってばかりで、
実の父鳥羽上皇には「即位の器量ではない」と見なされていました。
天皇になってからの人生も「能なし」だったでしょうか?
時間稼ぎの暫定天皇が平氏を味方にして利用する
1155年に近衛天皇が急逝。
皇位につく予定のなかった鳥羽法皇の第四皇子雅仁親王が、後白河天皇として即位しました。
幼い守仁親王が即位するまでの中継ぎということでした。
後白河天皇は、1156年の保元の乱、1159年の平治の乱で武家の棟梁として地位と権力をものにした平清盛との協力体制を敷きます。
既に二条天皇に天皇の座を譲り、上皇となっていた後白河院は、院政という形での執政を続けます。
そして仏教に傾倒し、出家をして法皇となります。
その間、平清盛は後白河院のために法住寺御所近くに蓮華王院を造営しました。
後白河院は平氏の奉仕や財力、そして武力を味方につけ、その返礼に後白河院の信任を受けた清盛は異例の昇進を遂げ、太政大臣にまで上り詰めます。
平家一門も皆高位高官を占め、栄華を極めたのでした。
険悪になると平氏を切る法皇
しかし、後白河法皇の后であり、清盛の義理の妹である建春門院滋子が亡くなった後、「法皇や院の近臣」と「平清盛」との対立が深まります。
1177年、京都郊外の鹿ヶ谷で院の近臣たちが画策していた平氏打倒の陰謀が発覚し、法皇と清盛の関係が険悪になります。
その後、さらに後白河法皇を中心にした反平氏の動きに清盛は、
ついに法皇を幽閉(治承3年の政変)。
清盛はその勢いで平氏の専制的な政権を作り上げました。
しかし、それが地方武士たちの反感を招きます。
そして1180年、後白河法皇の第二皇子以仁王の令旨がきっかけとなり、諸国の武士や源氏たちが平氏政権を否定して挙兵。
そんな状況の中、平清盛が熱病によって亡くなってしまいます。
それは、後白河院にとっては朗報でした。
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源氏の武将という手駒を次々と捨て替える
源頼朝らが挙兵する中、まず従兄弟の源義仲が平氏一門をついに京から追い出しました。
最初は喜んだ後白河院でしたが、政治的な配慮が乏しかった義仲を嫌います。
そして頼朝が派遣した弟の源範頼と源義経に義仲を討伐させました。
その後一時は勢いを盛り返した平氏でしたが結局、源義経の活躍で壇ノ浦にて滅亡してしまったのでした。
後白河院は、活躍した源義経を利用して源頼朝の対抗馬にしようと画策します。
すでに兄弟仲が完全に破綻していた頼朝と義経。
義経は院に頼朝追討の宣旨を出させます。
しかし、武士たちは法皇の宣旨や義経の呼びかけに応じず頼朝を重んじます。
義経の形勢が悪いとみるや、後白河院は義経を捨て、頼朝に対して義経追討の宣旨を出すのです。
義経は孤立し、最終的には落ち延びていった奥州で藤原秀衡に襲われ、自害をしました。
関連記事 >>>> 「後白河法皇に翻弄された源義経の悲劇」
源氏の棟梁源頼朝との駆け引きと公武の協力体制
こうして頼朝は武家の棟梁としての地位を確保し、後白河院に対面しました。
頼朝の40日間にわたる京滞在の間に、後白河院と頼朝はお互いの協力体制を確認します。
形ばかりの官位よりも実質的な武士を統率する権力のほうが必要だった頼朝。
後白河院から与えられた権大納言・右大将の両官を結局辞退し、諸国の守護権を公式に認めさせます。
後白河院は頼朝が欲しがった征夷大将軍の地位はまだ与えませんでした。
しかし、守護権を与えたことで武家が朝廷を守護する、という鎌倉時代の政治体制が確立することになったのです。
後白河院としても、法皇や朝廷としての面目が立った上、頼朝の持つ軍事力に守られるという体制が整ったのです。
一息つけるかと思った矢先、1192年に後白河法皇は66歳で崩御しました。
きょうのまとめ
最後までお読み頂きありがとうございました。
後白河法皇とは、
① 今様の趣味にハマり、誰にも将来を期待されない親王時代を送った人物
② 歴代天皇の中でも最も政治的な力を発揮した一人
③ 時流に乗った武将をうまく利用して混乱の時代を生き抜いた法皇
④ 鎌倉幕府の成立に伴い、公家と武家の在り方の基本を作った人
と言えるのではないでしょうか。
そのほかにも後白河法皇にまつわる色々な記事を書いています。
よろしければどうぞご覧ください。
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