後白河法皇に翻弄された源義経の悲劇

 

近衛天皇が急逝し、

幼い守仁(もりひと)親王が二条天皇となるまでの「 つなぎ 」の天皇だった

後白河天皇

流行歌の今様に没頭し、無能だと思われていたはずが、

ひとたび天皇の位に就くと、したたかな政治家ぶりを発揮します。

悲劇のヒーローとして知られる源義経の例をとって、

後白河院の巧みな謀略について見てみましょう。

 

源義経の悲劇を作った後白河院

源氏一門のため、兄である源頼朝のために命を張った平家滅亡の立役者・源義経。

しかし、彼のその後の行動全てが裏目に出て、

誤解が誤解を招き、義経と頼朝の兄弟関係は破綻します。

『 平家物語 』を始めとする歴史物語などで語り継がれるその悲劇。

そして、その兄弟の仲違いの原因の一端はまさに後白河法皇にあったのです。

義経の武功に対する報償のつもりが・・・

法住寺合戦によって木曽義仲に幽閉されていた後白河院は、

1184年、義経軍が義仲を破ったことで、幽閉から解放されます。

つまり、義経は後白河院の恩人。

これで後白河院の気持ちはぐっと義経に近づきます。

平氏が力を盛り返している中、

後白河院の次なる目標は歴代天皇のアイテム、三種の神器を取り戻し、平氏を完全に排除すること。

後白河院は平宗盛追討の宣旨を出すと、

義経・範頼軍が一ノ谷の戦いで平氏軍を壊滅。

そして、義経は壇ノ浦で平氏を滅ぼしました。

願った通りの結果に、後白河院は大喜び。

そして義経に左衛門少尉、検非違使の位と職を授け、

さらに九州や四国の地頭に任命してしまったのです。

しかし、それはそんなにあっさり直接本人に与えてよかったのでしょうか・・・?

後白河法皇と義経の失敗

義経は関東にいる兄頼朝の命に従って平氏討伐を行っているはずでした。

頼朝にしてみれば、部下の義経が上司の自分ではなく、

後白河院という別の上司から勝手に褒美を得ることは許されません。

まだ自分に官位を与える権限がなかった頼朝は、

関東の武士たちの手前、後白河法皇にそうされるのは、立場上歓迎できなかったのです。

もちろんそれは、後白河院だけの落ち度ではなく、

自己判断で軽く受けてしまった義経にも問題はありました。

平氏討伐後の前から義経は、ちょっといい気になっていました。

頼朝の意向の無視や越権行為もありました。

後白河院も義経も、源頼朝を「 立てる 」ことを忘れていたのでした。

頼朝の義経に対する不満

頼朝から見れば、安徳天皇を救えず、自害に追い込み、

朝廷との有利な取引材料となるはずだった三種の神器のうちの宝剣を紛失したことは義経の大失敗です。

なのに、弟の義経は都でヒーロー扱い。

これ以上都での義経に対する扱いが大きくなるのは立場上、

頼朝にとっては実にまずいことでした。

頼朝の義経への不信感は強くなり、都でいい気になっている義経の領国を没収し、

義経が関東へ凱旋しに戻ることも拒否します。

びっくりした義経

少し調子に乗っていたとはいえ、

頼朝の命令に従って平家討伐をした自分に怒る兄が理解できません。

しかし、どう許しを請うてみても、頼朝の硬い態度は変わらず、義経も兄弟関係修復をあきらめます。

こうして義経と頼朝の仲違いは決定的となりました。

手のひらを返した後白河院

義経は、後白河院から頼朝追討の院宣を出させて頼朝との対決を決心します。

ところが、義経に味方する者がいません。

京に押し寄せる頼朝側の軍に恐れをなした後白河院。

兄弟喧嘩に自分が巻き込まれるわけにはいきません。

手のひらを返して、今度は義経追討の院宣を出します。

この後白河院の裏切りで今度は義経が朝敵になりました。

都落ちをし、逃避行の末に奥州藤原氏を頼って平泉に身をよせた義経。

頼朝は藤原泰衡に義経と郎党たちを襲撃させ、衣川で義経に自害させました。

一つの誤った判断が誤解を大きくし、

最後には命を落とすことになった義経の悲劇。

しかし元はといえば、後白河院にもが原因があったと言えませんか?

 

懲りないその後の後白河院と源頼朝

一度は頼朝の追討宣旨を出した後白河院のことを

「 日本国第一の大天狗 」と呼び、

怒りまくっていた頼朝に、今度は後白河院がすり寄ります。

奥州征伐を讃える書状を送り、按察使(あぜち)の任官や権大納言、

右近衛大将などの官を与えてようとしますが、形ばかりの官位を頼朝は全て拒否。

結局、頼朝の諸国守護権を公式に認めることになりました。

しかし頼朝が最も欲しかった征夷大将軍の称号を得たのは、

後白河院が崩御してからです。

そこに作為があったのかどうかは不明ですが、朝廷と院の立場を守りながら、

幕府のご機嫌を損ねない程度に協力し合う後白河院のしぶとい駆け引きは、その死の直前まであったということです。

後白河院のために平清盛、源義仲、源頼朝でさえ次々と翻弄され、源義経の悲劇まで起きました。

公家の時代から武家の時代への潮流の変化の中、方法は何であれ、

ただでは武家のいいなりにはならなかったやり手の法皇。

二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の五代に渡る天皇の時代に院政を貫いたしたたかな人物、

それが後白河法皇だったのです。

 

[関連記事]

 










合わせて読みたい記事



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

thirteen − 10 =

ABOUTこの記事をかいた人

歴史ライター、商業コピーライター 愛媛生まれ大阪育ち。バンコク、ロンドンを経て現在マドリッド在住。日本史オタク。趣味は、日本史の中でまだよく知られていない素敵な人物を発掘すること。路上生活者や移民の観察、空想。よっぱらい師匠の言葉「漫画は文化」を深く信じている。 明石 白(@akashihaku)Twitter https://twitter.com/akashihaku 明石 白(akashihaku)Facebook https://www.facebook.com/akashihaku