福沢諭吉『脱亜論』を要約してみた!そのとき韓国では何が?

 

福沢諭吉が書いたとされる『脱亜論』

よくアジア蔑視べっしだとかアジア侵略の論理などと書かれているので、

少し怖いイメージを持っている方もいらっしゃるかもしれません。

もし内容をご存じなければ、まずはフラットな気持ちで『脱亜論』について知ってみませんか?

今回は福沢諭吉と脱亜論について、簡単にご紹介していきます。

 

無記名の新聞社説だった

分量は多くない

今では福沢諭吉が書いたとされている『脱亜論』ですが、

もとは新聞の一面に記載されていた無署名の社説だったことをご存知でしょうか。

明治18(1885)年3月16日付の「時事新報」に載っていた約2,000字の社説です。

決して長いものではないので、ぜひ一度原文を読んでみると良いかもしれません。

ただし、読みにくいことは確かです。

『脱亜論』は誰が書いた?

近年では福沢諭吉が著者ではないとする説もでているようです。

ではなぜ、一般的には福沢諭吉が書いたとされているのでしょうか。

それは福沢諭吉の死後に発行された「福沢全集」に入っていたからです。

編纂したのは時事新報の主筆だった石河幹明という人物でした。

現在『脱亜論』と呼ばれるものは、もしかすると石河によって書かれたのでは? 

とも言われているようですよ。

 

脱亜論の内容とは

では、その『脱亜論』には何が書かれているのでしょうか。

私なりに簡単に要約してみましたので、ご覧ください。

文明は麻疹のようなもの

西洋文明は東へと伝わり、もはやその影響を防ぐことはできない状況にありました。

文明は麻疹はしかのようなものだ、と書かれています。

麻疹とは感染症のひとつですが、害悪しか及ぼさないであろう病ですら防ぐ手だてはありません。

ましてや取り入れたら得られる利益も大きいと考えられる文明は、もってのほかです。

そこで西洋文明の普及に努め、国民の適応を促した方が良いということです。

新機軸としての「脱亜」

幕末の開国をきかっけとして、日本は西洋文明を受け入れることの必然性に気付き始めました。

しかし西洋文明と江戸幕府は相反する存在でしたので、

幕府が存在する限りは西洋文明を上手に受け入れることができなかったのです。

ですが日本人は幕府を倒し、新政府を樹立しました。

これはただ単に近代文明を導入したということではなく、

日本がアジアの中にあって新機軸「脱亜」という主義を確立したということです。

中国や朝鮮にも明治維新が起こりさえすれば

日本はアジアの東端にありますが、その精神は中華思想に基づくアジアの悪い習慣を脱し、

西洋の文明に移っています。

ですがこれに対して、中国と朝鮮は旧来のやり方に固執していて、

自分自身や国家を改新するという考えを持っていません。

もし彼らの中に志士が現れて、明治維新のような改革が起これば話は別ですが、

このままだと中国・朝鮮は世界の文明諸国によって分割されてしまうでしょう。

絶交の宣言

西洋から見れば、地理的に近い中国・朝鮮と日本は同一視されてしまいます。

そこで、これら二つの国と仲良くすることは危険です。

今日、日本は中国・朝鮮の開明を待ち、アジア全体を発展させるほどの猶予ゆうよはありません。

二国との関係を脱して、西洋の文明国と進退を共にするべきです。

隣国だというだけで、格別の配慮は必要ありません。

西洋人が彼らに接するように、日本も接すれば良いのです。

そして最後はこう結んでいます。

悪友を親しむ者は共に悪友を免かる可からず。

我は心に於いて亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。

 

脱亜論の背景にあったもの

このように、『脱亜論』の中には厳しい表現も出てきます。

さてここからは、福沢諭吉が『脱亜論』を書いたという前提で進めていきましょう。

なぜ福沢諭吉は明治18年当時、そのような社説を発表したのでしょうか。

植民地化されるアジア諸国

欧米に比べると文明が遅れていたアジア諸国は当時、次々と西洋諸国の植民地と化していました。

例えばベトナムはフランス、インドネシアはオランダ、

マレーシアや香港はイギリスに支配されていたのです。

まずはそういった危機感の中で、この文章が書かれたことを理解してください。

そして福沢諭吉は、文明開化を成し遂げた日本がアジア諸国の手本になるだろうと考えたのです。

そこで福沢は、朝鮮人留学生を受け入れることになりました。

金玉均との親交

そうした中で、福沢はとある朝鮮人愛国者・金玉均キムオッキュンと出会います。

当時の朝鮮はしん(現在の中国)に従っている状態でしたが、

その清が欧米諸国の植民地となってしまうのではないかという、危機的な状況にありました。

そこで金玉均はその前に清から独立し、朝鮮でも文明開化を行おうと考えていました。

金玉均はすでに朝鮮でも有名だった福沢に、朝鮮独立のための協力を依頼したのです。

福沢もこれに協力し、門弟の井上角五郎を朝鮮に派遣しています。

そして井上は、朝鮮国内で新聞『漢城旬報ファンソンスンボウ』を発刊しました。

読みやすい文体にしたおかげで、多くの人びとが新聞を読むようになったといいます。

甲申事変の失敗

明治17年(1884年)12月4日、金玉均は漢城(現在の韓国・ソウル)でクーデターを起こしました。

はじめはうまく事が進み、朝鮮が清国からの独立することを宣言します。

ですが12月6日、清の軍が出兵してきたのです。

清の干渉によってこのクーデターは失敗、後にこれを甲申事変こうしんじへんと呼びます。

首謀者として追われることとなった金玉均は日本に亡命しますが、

父は死刑、母は自殺、弟は獄死という結末を迎えました。

後に金玉均本人も上海で暗殺されてしまいます。

このような状況に失望し、怒りに震えた福沢諭吉は『脱亜論』を発表したと言われています。

文明開化のチャンスを自ら潰した両国に対して、厳しい言葉を浴びさせたと考えられます。

 

きょうのまとめ

今回は福沢諭吉と脱亜論についてご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか。

① 『脱亜論』は無記名の新聞社説だった

② 『脱亜論』の著者は福沢諭吉ではないとする説もある

③ 『脱亜論』の中には、当時の中国や朝鮮に対して厳しい言葉が向けられている

④ 甲申事変に失望して『脱亜論』は書かれたと言われている

こちらのサイトでは他にも、福沢諭吉に関する記事をわかりやすく書いています。

ご興味をお持ちの方は、ぜひご覧になってくださいね!

 

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