豊臣秀吉の子飼いの武将として知られる福島正則は、
江戸時代に入り改易されてしまいます。
改易とは、今で言えば「左遷」や「減給」のようなものです。
安芸・備後の国に与えられていた50万石の領地を没収され、
高井郡と越後国魚沼郡の高井野藩4万5000石に減転封されてしまいます。
50万石が4万5000石ですから、とんでもない減封です。
その後、正則の子孫たちはどのように過ごしたのでしょうか。
一緒に見ていきましょう。
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福島正則の家系図
福島正則のざっくりとした家系図です。
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松雪院
(※)—–|
|—女子—正之
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|—正則—|—–正友
| |—忠勝—政長—正勝—正視—正森—正韶—正聖
| |—正利
| |—女子
| |—女子
|
|—高晴—|—正晴—忠政
|—高広
福島正則の子孫たち
正則の子孫たちがどのように過ごしたのか調べてみました。
福島忠勝
福島忠勝は正則の次男として生まれました。
嫡男である正友が早くに亡くなり、福島家に養子に迎え入れられていた従兄弟の義兄・正之も亡くなったことから、嫡男となりました。
正則が幕府から改易された時にも将軍・秀忠の上洛に随行していたので、父・正則とは違って幕府からの信頼は厚かったのかもしれません。
忠勝は正則と共に信濃高井野に移ります。
この時に正則から家督を譲られ、信濃高井野藩第2代藩主となります。
しかし1620年に22歳と言う若さで亡くなってしまいます。
正則は悲しみのあまり、4万5000石の領地のうち、越後国魚沼郡2万5000石を幕府に返上してしまいます。
さらに4年後の1624年に正則が死去すると、幕府の検死役が到着する前に家臣が正則の遺体を火葬したため、残りの2万石も没収され、大名としての福島家は断絶してしまいます。
福島正利
福島正利は、忠勝の同母の弟で正則にとっては三男だと言われています。
正則が死去し領地を没収された時に、正利は取り成しを願って、
父の遺品から「正宗」や「大光忠・貞宗」などといった名刀を、大御所・秀忠や将軍・家光に献上しています。
翌年幕府は、正利に没収した2万石の中から3112石を与えて旗本として取り立てます。
正利が献上した名刀の数々のおかげかは分かりませんが、なんとか福島家の名前を残すことが出来たのです。
しかし、やっと一安心かと思ったのもつかの間。
正利は子供のいないまま、37歳で死去してしまいます。
福島家はまたもや断絶のピンチを迎えるのです。
福島正勝
福島正勝は、忠勝の子である福島正長の長男です。
つまり、正則のひ孫に当たります。
1681年に時の将軍・徳川吉綱に召し出され、上総国長柄郡・夷隅郡、現在の千葉県に2000石の領地を与えられ旗本となります。
正利が亡くなったのが1637年ですから、実に44年振りの旗本復帰となります。
正勝から正視、正森、正韶、正聖と、福島氏は2000石の旗本として明治維新まで続くことになります。
きょうのまとめ
福島正則の子孫について紹介しましたがいかがでしたか?
途切れては繋がり、途切れては繋がりを繰り返しなんとか旗本として
江戸時代を生き抜いた子孫たち。
きっと壮大なドラマがあったのでしょうね。
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