宇喜多秀家の用いた家紋とは?

 

宇喜多秀家うきたひでいえはわずか10歳で宇喜多家を継ぎました。

豊臣秀吉の寵愛を受け、五大老の一人となります。

関ヶ原の戦いでは西軍に与して主力になり、戦後は島津家を頼って薩摩(鹿児島県)に落ちのびます。

その後、島津家は徳川家に臣従、秀家の身柄を引き渡しました。

本来なら斬首ですが、罪一等減じられ八丈島に流刑となります。

秀家はどんな家紋を用いていたのでしょうか?

気になるところですね。

今回は宇喜多秀家が用いた家紋について書きます。

 

宇喜多家と秀家が用いた家紋とは

宇喜多秀家

宇喜多秀家
出典:Wikipedia

宇喜多家の家紋とは?

宇喜多家の家紋は剣片喰けんかたばみです。

片喰かたばみとは日本古来の植物です。

少々、専門的な話になりますが、カタバミ科の多年草です。

多年草:2年以上にわたって生存する植物

庭先や道端に自生し、ハート形の葉が特長で、葉は皮膚病の薬になるそうです。

春から秋にかけて黄色い花が咲き、繁殖力が強い植物です。

この特性が子孫繁栄につながるとされ、家紋に用いられたと考えられます。

四国の長宗我部家もこの「片喰」の家紋を用いました。

逆境に耐えて、根を張りやがて繁栄につながる。

そんな思いから宇喜多家でも「片喰」が用いられたのでしょう。

 

関連記事 >>>> 「長宗我部元親と家紋」

秀家が用いた家紋とは?

一方、秀家が好んで用いたのは「児の字」です。

「児の字」は家紋というよりも旗印に使われました。

今ではあまり見なくなった「児」の旧字が使われています。

宇喜多家の祖先は百済からの渡来人と言われています。

祖先は最初、三宅氏を名乗っていました。

そこから宇喜多氏が分かれて誕生しました。

三宅氏は「児の字」の旗印を使っており、秀家もそれに倣ったと考えられます。

「児の字」の旗印はやがて、秀吉配下に入ります。

秀家の父、直家が毛利氏から秀吉に寝返ったのです。

宇喜多家は旧主の毛利攻めに加担します。

また秀家は「羽柴姓」を賜るほど豊臣政権で出世し、外様でありながら秀吉からの信頼が厚く「桐紋」の使用も許されていました。

関ヶ原の戦いで西軍についたのもうなずけますね。

 

きょうのまとめ

今回は宇喜多秀家の家紋のお話でした。

簡単にまとめます。

① 宇喜多家の家紋は「剣片喰」

② 「児の字」を旗印に用いていた

家紋にはいろいろな意味が込められています。

「家運の上昇」、「子孫繁栄」など。

家紋は戦国時代を生き抜こうとする拠り所だったのです。

「家紋」というとカッコイイというイメージが先行します。

でも、使っていた当事者には相応の思いがあったはずです。

「生きる」ということが困難な時代。

きっと家紋にいろいろな思いを託したのでしょう。

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