藤原氏繁栄の基礎をつくった藤原不比等。
4人の息子たちは優遇され、はじめから高い位に就くことが許されていました。
しかしそんな息子たちが突然、全員病気で亡くなります。
これは当時、とある人物の祟りであると噂されていました……。
今回は藤原不比等の息子たちの死因について、簡単に紹介していきます。
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長屋王の変とは?
729年、当時権勢をふるっていた長屋王が自殺に追い込まれました。
長屋王とは、天武天皇の孫にあたる人物。
藤原不比等の死後に左大臣となった彼は、藤原氏を遠ざけて皇親政治を推進していました。
一家ごと消された長屋王
そんな中、謀反を企てたという密告により、長屋王の邸宅は突然官兵に取り囲まれます。
その翌日、
長屋王は自殺。
さらにその次の日には、
長屋王の妻・吉備内親王(元明天皇の二女)とその子どもたちまで自殺に追い込まれました。
藤原四子の罠
これの出来事を「長屋王の変」といいます。
しかし長屋王には謀反の意図はなく、罠にはめられただけだったのです。
すべては藤原不比等の4人の兄弟、つまり藤原四子。
武智麻呂、房前、宇合、麻呂による策謀でした。
長屋王が狙われた理由
当時の藤原氏は、光明子(藤原不比等の娘)と聖武天皇との間に生まれた男児が亡くなり、
天皇の外戚となるチャンスを失っていました。
そして次の皇位継承候補となりえるのが、長屋王家でした。
長屋王もその妻・吉備内親王も血筋が良かったからです。
そこで藤原氏にとって何かと目障りな長屋王を、一家ごと消そうと考えたわけです。
わずか3ヶ月で全員死亡
長屋王の変の後、藤原四子は全員が議政官という地位に就きました。
議政官とは大臣・大納言・中納言・参議のことです。
房前と武智麻呂はすでに議政官でしたが、加えて宇合と麻呂も参議になりました。
さらに武智麻呂は右大臣に就任したことで、藤原四子による政権が誕生しました。
しかしそれから8年、わずか3ヶ月の間に四子は全員、
当時大流行していた天然痘にかかって亡くなります。
これは冤罪で死に追いやられた長屋王の怨霊の仕業である、
と当時の人びとは信じていたようです。
実際には、四人が揃って会った使者が天然痘だったから、だそうですよ。
またもや長屋王、冤罪をかけられてしまいましたね。
きょうのまとめ
今回は長屋王の変と藤原四子の死因について、簡単にご紹介しました。
② 長屋王は政敵・藤原四子の罠にはまって自殺した(長屋王の変)
③ 藤原四子は全員、天然痘にかかって亡くなった
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より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。
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