藤原不比等|天皇と結婚した二人の娘にまつわるエピソード

 

藤原氏といえば、皇室の縁戚となって繁栄した一族としても有名です。

その始まりは、藤原不比等ふじわらふひとでした。

不比等は娘を皇室に嫁がせることによって、勢力を伸ばしたのです。

そこで今回は天皇のもとへ嫁いだ、

不比等の二人の娘について紹介していきます。

 

藤原不比等の二人の娘

藤原不比等

出典:Wikipedia

藤原不比等には何人か娘がいたといわれていますが、

そのうち二人が天皇と結婚しています。

文武天皇の夫人・藤原宮子

まず一人目は、藤原宮子ふじわらのみやこです。

宮子は不比等と先妻・賀茂比売かもひめとの間にできた子といわれています。

そんな宮子は697年、文武天皇の夫人ぶにんとなりました。

これは

・藤原氏側が娘を送り込んだ、

・皇室側から「中臣鎌足(藤原不比等の父。中大兄皇子なかのおおえのおうじ(のちの天智天皇)とともに蘇我氏を倒した人物。天智天皇と深い信頼関係があった。)の子孫を天皇の配偶者にしたい」という要請があった

などと考えられています。

701年、宮子は首皇子おびとのおうじ(のちの聖武天皇)を産んでいます。

その後、文武天皇は25歳という若さでこの世を去り、

元明天皇(文武天皇の母)・元正天皇(文武天皇の姉)という女帝が連続で皇位に就きました。

そして724年、聖武天皇が即位すると、辛巳しんし事件」が起きます。

辛巳事件とは、聖武天皇が母・宮子の尊号(尊敬して呼ぶ称号)に関するみことのりを出したことに始まります。

それまで天皇の母は皇太夫人こうたいふじんでしたが、

聖武天皇は宮子のことを大夫人だいぶにんと呼ばせようとしたのです。

これは、藤原氏の権威を高めるための藤原氏側の策略とみられ、

当時、皇族を代表する勢力を持っていた長屋王ながやおうは反発しました。

結局この事件は、文章では宮子を「皇太夫人」とし、

口頭では大御祖おおみおやと呼ぶことで決着がつきました。

ですが、これがのちの「長屋王の変」につながる一因となったといわれています。

 

聖武天皇の皇后・光明子

さて、首皇子が誕生したのと同じ年、藤原不比等にも娘が生まれていました。

後妻・県犬養三千代あがたいぬかいのみちよ(安宿媛を産む前に、美努王みぬおうとの間に橘諸兄たちばなのもろえらをもうけています。)との間にできた、

安宿媛あすかべひめです。

安宿媛は光明子こうみょうしとも呼ばれ、やがて聖武天皇の妃となりました。

従来、皇后になれるのは皇族出身の女性に限られていましたが、

光明子はその慣例を破り、藤原氏出身でありながら皇后の座に就きます。

ちなみにこの時も、前述した長屋王は、光明子が皇后になることに反対しています。

前例を破ってまで、光明子を皇后にする。

これは当時の藤原四子

藤原不比等の子、

・武智麻呂
・房前
・宇合
・麻呂

の4兄弟のこと。光明子は4人の妹にあたる。

政権を盤石にするためだったといわれています。

聖武天皇と光明子との間に、将来天皇となる子が生まれれば、

外戚(=母方の親族)となって力をふるえるからです。

しかし結局二人の間には、将来天皇となる男子は生まれませんでした。

(男子は生まれましたが、夭逝ようせいしています。)

一族の期待に添えなかった光明子でしたが、悲田院や施薬院という施設をつくり、

孤児や貧窮者、病人などの救済を行ったことでも知られています。

 

きょうのまとめ

今回は天皇と結婚した、

藤原不比等の二人の娘について簡単に紹介しました。

① 藤原宮子は文武天皇の夫人となり、のちの聖武天皇を産んだ

② 辛巳事件で藤原氏と長屋王は対立を深めた

③ 光明子は聖武天皇の皇后となるが、将来の天皇は産めなかった

④ 光明子は孤児や病人の救済などに尽くした

こちらのサイトでは他にも、藤原不比等にまつわる記事をわかりやすく書いています。

より理解を深めたい方は、ぜひお読みになってくださいね。

 
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