室町幕府最後の将軍・足利義昭の最後とは?

 

室町幕府のラストエンペラーである足利義昭(あしかがよしあき)。

織田信長(おだのぶなが)に京都から追放された人、くらいの認識でしょうか。

彼は有名大名の庇護(ひご)の元、なかなかの波乱万丈な人生を送ります。

最後の将軍・足利義昭はどんな人生を送り、どんな最後を迎えたのか。

一緒に見ていきましょう。

 

足利義昭の人生

足利義昭の人生を詳しく見ていきましょう。

僧侶から将軍へ

義昭は長男ではなかったので、家督相続争いを避けるため、

という将軍家の慣例(かんれい)にのっとり、仏門に入ります。

覚慶(かくけい)と名乗り、一乗院門跡(いちじょういんもんせき)となりました。

本来であれば、僧侶として政治とは無縁の静かな人生を送るはずだったのです。

しかし、兄である義輝(よしてる)が三好三人衆(みよしさんにんしゅう)に暗殺されると、義昭の人生は一変します。

還俗(げんぞく)し、足利家の当主になることを宣言すると、各地を転々としたのち、

還俗: 僧が僧籍を離れて、俗人にかえること。

最終的に織田信長を頼り、上洛を果たし、15代将軍に就任します。

兄・義輝が暗殺されなければ歴史の表舞台に出てくる人物ではなかったのですね。

義昭の最後

信長に擁立(ようりつ)されて将軍の座に就きますが、

2人の関係はそう長くは続かず、京都から追放されてしまいます。

四国の有力大名だった毛利氏を頼って、安芸(あき)国に逃れていましたが、

信長が本能寺の変で討たれると、政権は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に移ります。

京都を追放されても征夷大将軍の地位を捨てなかった義昭でしたが、

秀吉が天下人になると征夷大将軍の地位を朝廷に返し、再び仏門に下ります。

この時、義昭は京都に帰還することを許されます。

京都で将軍になり、将軍職を捨てて再び京都に戻ったわけですから、

義昭からすると複雑な思いがあったことでしょう。

しかし、義昭の待遇は決して悪いものではありませんでした。

朝廷からは准三后(じゅさんぐう)という皇后に継ぐ位を授けられ、

秀吉からは1万石の領地を与えられます。

1万石とは言え、前将軍であった義昭は豊臣政権において破格の扱いを受けていました。

秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)にも名を連ね、秀吉の話し相手にもなっていたようです。

慶長の役(けいちょうのえき)のときには、秀吉たっての希望で現在の佐賀県唐津市にある名護屋城まで参陣しました。

その年の内に、義昭は腫れ物が悪化し大阪で死去します。

遠路の参陣が原因ではないかと言われています。

享年61歳で、歴代の足利将軍の中では「一番の長寿」でした。

義昭の死後

豊臣政権ではなかなかの待遇を受けていた義昭ですが、

その葬儀は前将軍としては寂しいものだったと言います。

形式にのっとって葬儀を行うには大変な資金が必要になります。

室町幕府の重臣だった細川家が義昭の葬儀を取り仕切ることになりますが、とても資金が足りません。

義昭の家臣たちがお金をかき集めても、必要最低限のものがやっと揃う程度でした。

秀吉も積極的に葬儀に係わろうとはしませんでした。

秀吉が資金を出してくれればいいのに、少しひどいと思ってしまいますよね。

・秀吉が義昭を厚遇(こうぐう)したのは「前将軍も優遇しているんだぞ」という自分の懐の深さを内外に示すパフォーマンスだったから、死んでまで厚遇する必要がなかったという説

・文禄(ぶんろく)・慶長の役の直後で秀吉にも資金がなかった

との説があります。

どちらにしても237年も続いた室町幕府最後の将軍としては、少し寂しいですね。

 

きょうのまとめ

足利義昭の最後、いかがでしたか?

波乱万丈な人生でしたが、戦国時代にあって、最後は天寿をまっとうしたのですから、

大往生と言っていいのかもしれませんね。

 

足利義昭の【完全版まとめ】はこちらをどうぞ。
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